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「いただきまーす!」 第15話

2020/08/02
 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

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第15話

「先生、お願いします。」
「あ、はい、今行きます。」

一平は枝肉検査台から降りて若い解体作業員さんについていく。

「これです。」
「あ、そうですね。すみません。」
解体作業員さんが1頭の豚の首の付け根を指差す。
前足を持ち上げ、覗き込むと、そこだけぽっこりと膨らんでいた。
膿瘍、つまり化膿して膿が貯まって腫れ上がっている病変だ。

一平は急いでナイフで抉り取り、廃棄物容器に投げ入れた。
背後で我妻係長の鋭い目がヘルメットの奥から光っている…。

あー、またやっちまった…。

今、一平が立っているここは、懸肉室という部屋。
冷蔵庫ほどではないが空調が入っており、やや涼しい。解体を終えた豚の枝肉を一時的に吊り下げておく場所だ。
豚が30頭ほど吊るせるようなラインが3本、並行に設置されており、奥で1本のラインに合流している。
合流したラインの先は巨大な冷蔵庫で、懸肉室から運ばれた枝肉はそこで保存され、翌日~翌翌日には保冷車で出荷される。
懸肉室は、最終製品である枝肉を、解体作業員が重量を測定したり検品したりする場所でもある。

この懸肉室の入口で待ち構えているのが、食肉衛生検査所の枝肉検査員だ。
枝肉検査に合格した枝肉は、1頭づつ検印が押され、懸肉室の奥へと移送される。この検印が押されて初めて、枝肉をと畜場の外へ出荷することができるのだ。

一平の豚解体ライン上でのと畜検査トレーニングも、大詰め。
昨日から枝肉検査の練習が始まっている。

「おい田中、残りの生体検査と枝肉検査、夏までには仕上げるんだからな。」
一平は黙って我妻にペコリと頭を下げ、足早に枝肉検査台に戻る。

わかってますってば、もう…。

枝肉検査台に戻ると、もう数頭も枝肉が貯まってしまっている。
大急ぎて一頭ずつチェックする。

逆さ吊りの豚の枝肉に化膿巣や骨折、出血や変性している場所があれば、それを取り除く。また、感染症を疑う病変が見つかればその枝肉を保留して採材し、細菌培養などの検査に回す。
これが枝肉検査の仕事だ。

1頭づつチェック。口で言うのは簡単。
しかし、豚のライン上でのと畜検査の中で1番動きが大きいのが、実は枝肉検査だ。

逆さ吊りになった枝肉の隅々を、目視検査するとはどういうことか。
枝肉は右側、左側に分かれてひとつのハンガーにぶら下がっている。
まずこの枝肉のお腹側を自分に向け、両側を見比べながら、上から下へ、つまり、両後肢、腹部の体表側及び骨盤~腰椎断面から腹膜全景、胸部の体表側及び胸骨断面と胸椎断面から肋骨全景、両前肢、頚椎断面、頭部切断面と見ていく。
続いてハンガーを反転させ、今度は背面を、下から上へ、頚部、胸背部、腰背部、殿部、尾根部、後肢背側部から踵部の順に確認していく。

要するに枝肉をひっくり返しながら、屈んだり伸び上がったり、前肢を持ち上げたりしながら、その時間帯に次々と流れてくる豚の枝肉を一人で全部チェックするのだ。
そしてなにか病変を見つけたらそれをナイフで取り除く。
大きく取り除く時は退避レーンに移し、合間を見てそこで処理をする。

当然、1頭毎にナイフとグローブは熱湯消毒する。
枝肉検査員の立つ枝肉検査台にも他のポジション同様、絶えず熱湯が満たされている消毒槽があり、そこに毎回ナイフとグローブをはめた手指を突っ込んで消毒するのだが、この消毒槽から出る湯気と熱気でなにせ暑い。
枝肉検査台の立ち位置の周囲温度は、オールシーズン30℃以上かつ湿度100%。
こんな場所で屈んだり伸び上がったり枝肉を反転させたりするのだから、冬はともかく、他の季節なら10頭も検査すればたちまち汗が吹き出てくる。

マスクが汗で濡れ、息苦しい。
そんな作業環境下で疲れが溜まってくると集中力が途切れ、つい病変を見落としてしまう。
それが枝肉検査員の下流で最終検品している解体作業員さんに見つかってしまうのだ。

「あ、先生、お願いします。」
懸肉室の奥手から別の解体作業員さんが一平を呼ぶ。

またか…。
「はい、今行きます。」
再び検査台から降り、その作業員さんへ向かった。

見落とした出血部位を切り取って検査台に戻ろうとすると、後ろから声がした。
「先生。早くしてくんねえか。昼になっちまう。」

振り向くと、痩せた初老の作業員さんが前肢回りの皮くずを取っている。
こちらに目を合わせようともしない。
難波主任。通称、バンさん。懸肉室の責任者だ。
枝肉の最終仕上がりの確認を任されているので、懸肉室の担当作業員はもちろん、さらに上流のポジションの作業員にもしょっちゅうダメ出しをしている。なので、作業員さんみんなからも煙たがれている存在だ。
食肉衛生検査所の検査員への直言も躊躇しないらしい。

「すみません。」
一平はそう言うと、再び枝肉検査台に戻った。

なんとかその時間帯の検査を終え、我妻と共にと畜場の検査員控室に戻る。
控室には他の検査員はもう誰もいなかった。
一番最後に戻ってきた我妻と一平だけだ。

「なかなかだろ?枝肉検査。」
「ええ、まあ…。」
「教えられた手順通りに一通り見たはずなのに、見逃してしまう。何故かわかるか?」
「見ようとする意識が続かないからだ。暑い中で同じ動作をずっと繰り返しているから、やがて意識がどっかに行ってしまう。」
「そして意識がここにない状態で同じ動作をしてしまう。目は向けているんだが見えていない。この時に見逃しが紛れ込む。」
「1頭終わる毎に意識をリセットするクセをつけると、見逃ししにくくなる。」
「天井見上げて1回深呼吸、とかな。リズムが身に付いてくると意識が飛ばなくなるぞ。」
「あとな、バンさんだが。」
「え?」
「あの人、ああ見えて面倒見のいい人なんだ。俺らもずいぶん面倒見てもらった。いや、今でも面倒見てもらってるかな。」
我妻は苦笑いしながら頭を掻く。
「枝肉チェックの勘所は、検査所のみんなもバンさんから教わったようなもんだ。」
「ただな、覚える気のない奴には容赦しない。検査員でもな。」
「バンさんに認められれば、あとはグイグイ引っ張りあげてもらえる。」
「全部を一発でマスターしようと思うな。今日のこの時間はこの部位の見落としをなくす、って感じで、その日の重点目標を決めて、それをまずきっちりでかしてみる。」
「それをやりきるだけで、バンさんは気付いてくれる。」
「ずっと枝肉検査ばかりだと神経が持たないから、他のポジションや生体検査の練習で気分転換しながらやっていくからな。」
「次回の枝検査の目標、何からやる?」
「そおっすね…。頚部からいきます。」
「そうか。バンさん、豚の頚部は毎日全頭、自分でチェックしないと気が済まない人だからな。そこでまず張り合おうってのか。こいつは楽しみだな。」
「え!じゃ、別んとこにしよっかな…。」
「ばーか、ビビってんじゃねえよ!向こう張るときは気持ちでぶつかれ!」
「えー、どうしようかな…。」
「まったく…。もういいから、ほら、メシ食うぞ。」
我妻はヘルメットを抱え、控室を出て行く。
一平も慌てて後に続く。

あのなお前、男って奴はな…。
そんなん言われても…。

一平が控室のドアノブを放すと、ドアがゆっくりと閉まり、やがて二人の声が聞こえなくなった。
検査員控室が再び静けさを取り戻す。

その日の夕方。
一平は現場検査が終わり、細菌検査室にいる。
木村と松田が後片付けの最中だ。

「へー。私も最初、バンさんにがっちりシカトされて頭にきたわよ。」
「で、どうしたんですか?」
「んなもん決まってるわ。こっちもシカトし返してやった。」
「半年ぐらい冷戦状態でしたねえ。」
松田が苦笑いしながら言う。
「若い作業員さん達、木村さんとバンさんの間に挟まっちゃって、右往左往してましたねえ。」
「で、どうなったんですか?今も?」
「私はともかくぜーったいバンさんの前で見落としなんかするもんかと、毎回ギラギラしながら枝検査やってた。」
「そしたら?」
「ある日バンさんが椎骨1個だけ持ってきて私に見せたの。断面に小さな膿瘍があった。」
「それ見て思わず、なんだちっせえの、と言ったら、バンさんが吹き出して大笑い。」
「私もつられて大笑い。」
「よくわかんないけど、そんときから普通にしゃべるようになったかな。」
「今は世間話もよくしてるわよ。バンさん、結構奥さん怖いみたい。」
木村はそう言いながら、けらけら笑う。
「さすが木村さん。私はまだビビってますねえ。」
松田が首をすくめて言う。
「苦手だって言う人の方がまだ多いかもね。」
「まあ、結果出して認めてもらうのが一番よ。」
木村はフフンと鼻を鳴らした。
と、隣のPCR室から石川課長が巨体を揺すりながらのっそりと入ってきた。
「木村、お前、枝肉検査入ったばかりの頃、俺になんか言ってなかったっけか?」
「へ?なんのことでしょうか。すっかり覚えていませんけど。」
「おい一平、こいつな…。」
「あー、ちょっと待ったあ!あ、そうそう、課長、ついさっき所長が津田さんの結婚式のことで呼んでましたよ!」
「お、そうか。んじゃ、ちょっくら行ってくっか…。」
「津田さん、いよいよ日取り決まったんですね。」
「そうみたいね。」
そう言うと木村は試薬を持ってそそくさと細菌検査室を出て行った。
「あ、逃げましたね。」
松田がにやりと笑う。
「そうみたいっすね。」
一平は、じゃ、僕も手伝いますよ、と言い、松田と共に使い終わったガラス器具を片付け始めた。

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