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「いただきまーす!」 第22話

2020/09/20
 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

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第22話

「田中君、これ頼んでいいかな?」
松田がステンレストレイを差し出した。
トレイには1本の注射器と豚のリンパ節が1つ乗せられている。
「了解です。」
一平はトレイを検査台に置き、滅菌済みのハサミとピンセットが入った容器を手にした。

一平はここ1週間、検査室の下働きにかり出されている。
木村の学会発表準備作業がいよいよ本格化し、検査室での業務に人手が足りなくなったためだ。
木村は連日のように石川課長から次々とダメ出しを食らっては、実験の追加試験や発表スライドの手直しを繰り返している。
今日は暗室から出たり入ったりしては撮影した写真をチェックし、そのたびにため息をついている。

いよいよキレそうだ…。
背中から青白いオーラが見える…。

「なんか俺、ここにいたくないっすよ。」
一平が松田にそっと近づき、耳打ちをする。
すかさず松田も返す。
「田中君は指導課だからまだいいですよ。私は検査課なんで逃げ場がなくて。私まで最近、胃が痛くなってきちゃって…。」
「同情します。ホント…。」

「そこ、何ヒソヒソやってんの!」
木村が振り返り、松田と一平を睨み付けた。
一平は手にした容器をぶちまけそうになるのを必死にこらえる。
松田は素知らぬ顔で受け流し、
「じ、じゃあ、培地を持ってきますね。」
足早に冷蔵ショーケースに向かった。
一平は木村の鋭い眼光に捕まったまま、身動きができない。
と、内線コールが鳴り、検査室内にインターホン音声が響いた。
「石川だ。木村いるか?」
「はい、木村です。」
一平を睨み付けたまま、木村は明らかに苛立ちながら答えた。
「ちょっと上がってこい。朝もらったお前の抄録原稿読んでるんだが、何が言いたいのかよくわからん。」
「…。はい。今行きます。」
木村は目を伏せ、大きなため息をつきながら細菌検査室を出ていった。

助かった…。

松田が培地が入ったシャーレを検査台に置く。
「あの二人、ずっとあんな感じなんです。」
「でもびっくりするぐらい、いいものができそうなんですよ。」
「課長も木村さんも、こんぐらいでいいや、なんて妥協はしたくないタイプなんですね。私には理解できませんけど。」
松田がぺろっと舌を出す。
「いいもの、ですか?」
「ええ。」
「多分、他の検査所からも、いい評価もらえるでしょうね。」
「へー。そうなんですか。」
「あ、きたきた!」

どかどかという足音が廊下から聞こえたかと思うと、細菌検査室のドアががらっと開き、石川課長と木村が入ってきた。
二人はそのまま暗室に直行し、バタンとドアを閉めた。
中からああでもない、こうでもない、という話し声が聞こえる。
やおらドアが開き、二人で撮影した写真をチェックし始めた。
「ほうれ見ろ、できただろうが!こうやってやんだよ!」
「最初っからそうやって教えてくれればいいのに。」
「そんなのいちいち人に聞かないで自分で考えろ!」
「撮影条件はありがたくいただきます。けど、課長が撮ったやつより、私が撮ったほうがピントがシャープなんで、私が撮ったほうを使いますよ。」
「ふん、勝手にしろ!」
石川は一平達の方へ向き直り、細菌検査室のドアへ2、3歩進み、ふと立ち止まった。
再び振り返り、木村に言う。
「発表抄録はさっき言った手直しが済んだら決済に回せ。」
え?と言い、木村がぽかんとした顔で石川を見つめる。
「なんだ、なんかあるのか?」
「いえ…。分かりました。」

石川が細菌検査室を出ると、木村がそばにあったイスにへたり込んだ。
「やっと通った…。」
「よかったですね。」
松田が声をかける。
「3週、いや、4週かかったかな…。」
「よく頑張りましたね。」
木村は少しの間目を伏せ、やがて松田を見つめた。
「妙な感覚だったの。」
「最初は何言ってんだこのやろう、って思ってたんだけど、直った文面読み返すたびに私の言いたいことがどんどん活字になっていく。それにきっと伝わってくれるだろうと思えるような文章構成や表現に少しずつ置き換わっていく。」
「私が頑張った、というより、課長が引き出してくれた、って感じ。」
「私、文献読む量とか実験計画作る力は、自分は絶対課長に負けてないと思ってる。」
「伝えたいことをきちんと表現するために、不足しているデータを見極めて補い、伝わりやすいように文章を構成する技術。今の私に足りないのは、これね。」
松田が小さく微笑む。
「そう思える木村さんは、そのうち石川課長を超えますね。」
「まあ、こっからです。見ててください。」
木村はそう言い、立ち上がって暗室に入っていった。

暗室のドアがバタンと閉まったのを見届けた松田が、ぽつりと言う。
「いいなあ…。」

やがて松田は傍らに一平がいることを思い出し、照れ笑いをしながら慌てて訂正した。
「いやいや、こんな木村さんもかわいいなあって、ね。」

松田の言葉に小さな微笑みで返し、一平は容器からハサミとピンセットを取り出した。

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