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「いただきまーす!」 第30話

2020/11/15
 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

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第30話

郷浜のアパートでただ一人、だらりと過ごした週末が明けた、月曜の朝。

アパートのドアを閉め、外階段を降りると、大家の神代ばあちゃんが庭の掃き掃除をしていた。
「あら田中さん、おはようございます。」
「おはようございます。」

なんか人と話すの、ちょっと久しぶりな感じ。

「しばらくお見かけしませんでしたけど。」
「ええ、ちょっと出張で。」
「それはご苦労様でした。」
「あ、そうそう、柿、食べます?」
「柿、ですか?」
「ええ。たくさんもらっちゃって。食べてもらえると助かるわあ。」
「今日お帰りになったら、寄ってもらえます?」
「そうですね…。えっと、じゃあ、いただきます。ありがとうございます。」
一平は、じゃあ夕方行きます、と言い、車に乗り込んだ。

いつもの田んぼの一本道を走り抜ける。
稲刈りがすっかり終わり、田んぼの景色が一変していた。

それこそなんにもない、って感じになっちゃったな…。

検査所に着き、玄関に入ると、靴をサンダルに履き替えている津田に出会った。
「やあ、おはよ。」
「おはようございます。」
「どうだった?研修会。」
「うん、行ってよかったです。木村さんもうまくいったみたいでした。」
「東京、久しぶりだったんでしょ?」
「まあ、そうっすね。」
「少しはお家でゆっくりできたかい?」
「別に…。お袋とはちょっと話したかな…。」
「まあ、そんなもんだよな。」
「ええ。」

津田が靴を下駄箱に入れ、振り返った。
「あ、そうそう、柿、もらってくれない?」
「え、柿ですか?」
「お願いだからもらって。たくさんあって、もう食べきれなくて。」
「まあ、少しだけなら…。」
「やったあ!じゃあ後で。」
そう言うと津田は足早に更衣室へと去っていった。

柿か…。
神代ばあちゃんからもらうことになってるけど、俺もきらいじゃないし、まあいっか…。

白衣に着替え、事務室に行く。
すかさず山田が一平に駆け寄ってきた。
「一平君、おはよ!」
「な、なんすか?」
「柿、食べる?」
「え?」
思わず津田を見る。
自分の机に座ったまま、津田がにやにや笑っている。
「主任、一平君は僕からもらうことになってますからね!」
やおら山田が津田に向き直る。
「ちっ!やりやがったなあ!」
悔しがる山田は事務室に入ってきた水戸所長を見つけ、今度は所長に駆け寄った。
しなを作り、所長にすり寄る。
「所長、おはようございます。」
「おはよ。なんだよ、気味悪いなあ。」
「柿、食べません?」
「あ、いらなーい。僕んちにもいっぱいあるから。」
「えー、そんなこと言わないで、ほら、お肌にもいいって言うし、もっと食べてもいいんじゃないでしょうか、ね?」
「いらなーい。」
水戸所長はすたすたと所長室に入っていく。
「えー、誰かもらってえ!おねがーい!」
津田が腹を抱えて大笑いしながら、一平にこっちに来なよと手を振った。
津田が耳元で囁く。
「この時期、ここいらは柿が一気に出回るんだ。とても食べきれなくて毎年みんなで押し付け合いさ。」
「あ、実は俺、アパートの大屋さんからも、もらうことになってました。」
「でしょ!」
「よく言われんのさ。柿って奴は今時分、勝手に足が生えて自分からやってくる、ってさ!」
「なるほど…。」
津田と一平は顔を見合わせて大笑い。

柿の貰い手はまだ見つからないらしい。
山田は腕組みをして事務室の入り口に仁王立ちになっていた。

その日の夕方。
最終の内蔵検査を終えた一平と津田は、と畜場のと畜検査員控室で装備品を片付けていた。
一平はざぶざぶと顔を洗い、タオルで顔を拭いた後、流しの縁に両手をついて大きなため息をついた。

“県職なんて辞めちまえよ”
“一平君はどうなの?”
吉田と由美の言葉が頭から離れない…。

「なんだよ、疲れてる?」
「いえ…。」

何も言えずにしばし一平の横顔を眺めていた津田が、ナイフを棚に置き、一平に向き直った。
「ねえ、そろそろ群れが来てるみたいなんだけど、行かない?釣り。」
「え?」
「イナダが浜に来てるんだ。ルアーやりに行こうよ。ヒラメも狙えるよ。」
「ルアー教えてくれって言ってたでしょ?」
「ルアー…。」
ゆっくりと一平が顔を上げる。
「そう。ルアー。」
津田が不安げに繰り返す。

ああもう、まとまんねえ!
いっぺん考えんのやめよ!

やおら一平が津田に向き直った。
「そうでした、ルアーでした!」
「行きます、行きます!」
「そう来なくっちゃ!じゃ早速、いつもの釣具屋で作戦会議するよ!」
「了解です!」

二人は勢いよく控室のドアを開け、検査所へと駆け出して行った。

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