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「いただきまーす!」 第36話

2020/12/27
 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

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第36話

「田中君、久しぶり!」
里崎市にある里崎保健所に勤務している同期の獣医師、若林がロビーの奥のソファから立ち上がり、一平に手を振った。
「あ、若林君!ほんと久しぶりだね。」

里崎市にある里崎県衛生研究所の講堂で、県内の保健所、食肉衛生検査所の担当者を対象とした研修会が開催されていた。
慌ただしく始まった研修会がようやく小休憩に入り、講堂のロビーには関係者と出席者がそこここに集まり、談笑している。

若林がこっちこっち、と手招きをする。
若林の隣には温厚そうなスーツ姿の男が座っている。40代ぐらいだろうか。
一平が近づくと微かに微笑みながら隣の男も立ち上がった。
「田中君、こちらは県庁生活衛生課の課長補佐の相澤さん。初めてだよね?」

え、県庁?

慌てて頭をぺこりと下げる。
「郷浜食検、指導課の田中と言います。若林さんと同期です。よろしくお願いします。」
「初めまして。生活衛生課の相澤です。遠いところ来てくれてありがとう。公用車で来たんでしょ?早出させちゃってすまないね。」
「検査所、どう?」
「みなさんからよくしていただいて、なんとかやってます。」
「私も郷浜食検にいたことあるんだよ。なんか最近はこっち方面ばっかりになっちゃったからすっかりご無沙汰で。懐かしいなあ。」
「じゃあちょっと準備があるんで、これで失礼するね。」
相澤が研修室に戻って行く。

若林が一平にそっと耳打ちをする。
「あの人、県庁の桐生課長の懐刀。すっげえ切れ者。」
「僕、食品担当なんだけど、動物の仕事もやらされてて、結構うちの動物担当との打ち合わせに引っ張りだされるんだ。」
「どうもセンター構想が本格的に動き出すみたい。」
「センター?」
「あ、もう始まるよ。次のコマで相澤さんが話してくれるから。」
さ、行こ、と促され、若林の後を追って研修室に入った。

まもなく会場が暗くなり、スライドが写し出される。
スライドに従い、相澤が里崎県における動物愛護の現状を簡潔に説明した。
やがて会場の明かりが元に戻され、壇上の相澤補佐が穏やかに出席者に語りかけた。
「恥ずかしながら、うちの県では動物愛護の分野が遅れています。」
「今、県で運用している施設は狂犬病予防法の概念、つまり収容と返還、殺処分の機能を果たすために作られた昭和の時代の施設。この施設も今の時代に合わせたものに作り替えていかなければなりません。その議論も、もう机上では始まっています。」
「ただ、箱物なんかよりも何よりも、大切なのは、」
「正しく飼おうと考えてくれる人をもっと増やす努力。そして、その人たちが長く飼い続けてくれるようにサポートし続ける努力。」
「最新の知見を旺盛に取り込みつつ、この努力をひたすらやり続けてくれる人材。これが必要です。」

相澤が会場の一人一人を見渡す。
「うちの県は、今日この日から人作りを始めます。」
「動物保護施策を専門とする大学研究者の方のもとで保護施設専門の獣医学、シェルターメディスンを吸収すると同時に大学研究者との人的パイプを構築し、最先端の知見を県の動物施策に反映させていく仕事をしていただく。」
「入庁3年目以上の職員の方で希望される方は、間もなく各公所で行われる人事ヒアリングの席上で、所属長にその旨を伝えてください。」
「以上です。では私の話はこれで終わります。」

「ちょっと質問よろしいでしょうか。」
一平の隣に座っていた若林がガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、手を挙げた。
壇上を降りかけた相澤が、ゆっくりとマイクの前に戻る。

若林の顔は真っ赤だ。
「1年目の職員はだめなんでしょうか?」
相澤が小さく微笑む。
「所属長から上期の人事ヒアリングで説明があったと思いますが、採用から2年はまず公衆衛生分野の獣医師職場を経験してもらう時間。そういうルールになってます。」
「新規採用の方は、まずは保健所と検査所、この二つの職場がどういう職場なのかをしっかり経験してもらう。その上で自分の方向性を決めてもらいます。」
「人作りは1人作って終わるわけではないのです。今年からずっと続いていくのです。」
「若林さん。2年目を終える時にまだご希望がありましたら、どうか手を挙げていただきたい。」
「私もその日を楽しみにしていますよ。」
では、終わります、と言い、相澤が壇を降り、会場を出ていった。
何人かの出席者が相澤の後を追って会場を飛び出していく。

若林が椅子にへたり込む。まだ顔が真っ赤だ。
「くっそー。」
「来年は食検か…。でもね俺、絶対行くから。」
「そうだね。」
一平が優しく微笑んだ。

研修会が終わり二人で外に出る。辺りはすっかり暗くなっていた。
ビルが並ぶビジネス街の一角。近くにある繁華街のネオンや通り過ぎる車の明かりも郷浜よりもずっと賑やかだ。
冷えきった夜空に星が瞬いている。

「ねえ田中君、ご飯食べに行こうよ。すぐ近くにとっても美味しい牛丼出してくれる店、あるんだ。」
「あ、行く行く!」
二人は連れ立ってネオン街へと向かう。
やがて狭い路地の角にある古びた小さな食堂に入った。
4人掛けテーブル席が4つほど。奥が厨房だ。一人の客が新聞を読みながらラーメンを啜っている。

「いらっしゃい、あ、若林さん。」
70代ぐらいの小さなおばあちゃんが厨房から顔をのぞかせた。
「こんばんは。」
おばあちゃんが湯飲みを二つ、若林と一平が座るテーブルに置いた。
「この前はお世話様でした。これであたしも一息つきましたよ。」
「よかったですね。」
「今日は何にします?」
「牛丼二つお願いします。」
はい、とにっこり笑い、おばあちゃんが厨房に戻っていく。

若林が湯飲みの番茶を一口飲む。
「ここ、旦那さんがこの前亡くなって、おばあちゃんが引き継いだんだ。」
「旦那さんの飲食店営業許可をおばあちゃんに引き継ぐ、承継、っていう営業許可の手続きを保健所でしないといけないんだけど、それ分かんなかったらしくてさ。」
「慌てて飛んできたおばあちゃんを、たまたま僕が担当した、ってわけ。」
「へえ…。そうなんだ。」
「じいちゃんが頑張ってきた店なんだから、私が働ける間はきちんと引き継ぎます、だから何しないといけないか教えてください、って、ぺこぺこ頭下げられちゃってさ。」
「僕みたいな何にも覚えてない半人前以下のペーペーに、だよ。」
「手続きを一緒にしてる間、お店のこととか、じいちゃんのこと、いっぱい話してくれた。」
「二人でとっても苦労して、でもとっても楽しくやってきたんだ、ってさ。」
「この小さな店に、あのおばあちゃんのあらゆるものがいっぱい詰まってる。」
「まだまだやっていきたい、というおばあちゃんの思いに僕も少しお手伝いできるんだ、って思ったらさ、なんかとっても嬉しくて。」

「あ、来たよ。」
「はい、お待ちどうさま。牛丼です。」
おばあちゃんが牛丼をふたつテーブルに置き、ごゆっくり、と厨房に戻っていく。

早速箸をつかみ、一口頬張る。
甘じょっぱいタレがとっても柔らかい牛肉にからむ。ご飯がいくらでも食べられる。肉と米それぞれのおいしさを感じられる。けどバラバラじゃなく、とっても相性がいい。味の足し算じゃなくて、掛け算だ。
思わずどんぶりを掴み、一気にかっこんだ。

「あー、うめえ!」
「でしょ!」
「肉も米も旨い!」
「分かるかい?どっちも地元産。使ってる醤油だってこの市内で作ってる。じいちゃんが牛丼用に特別に頼んで作ってもらった逸品なんだって。」
「まさかここでこんな牛丼が食えるなんて、普通に暮らしてたら誰も思わないでしょ?常連さんは店を大事にしてるから無駄に言いふらさないでこっそり食べにくる。知る人ぞ知る、ってやつさ。」
「若林君、さては里崎のこんな店、いっぱい知ってるんでしょ?」
若林がどんぶりをドンと置き、箸を握りしめ、へへへっと笑った後、一平をきゅっと見つめた。
「当然さ!毎日何軒回ってると思ってんの!」

やるな、若林…。

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