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「いただきまーす!」 第42話

2021/02/14
 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

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第42話

午後3時過ぎの検査所の小会議室。
窓の外に目をやると、いつもの鉛色の空。雪こそ降っていないものの、相変わらす強い海風が吹き荒れている。窓から見えると畜場の屋根からは、恐ろしく大きくて長い氷柱が伸びているのが見える。

あれ、落ちてきたらヤバイよな…。

「では、始めます。レジメに沿って進めます。」
山本次長の声にはっとし、慌てて手元のA4コピー用紙に目を落とす。

集められたメンバーは、山本次長、我妻係長、渡辺、山田、津田、安藤、そして一平。郷浜食検指導課の課内会議だ。山本次長は指導課長を兼務している。

実は同じ課内のメンバーが一同に会する機会はあまりない。
現場検査と諸事で皆、常に検査所やと畜場内を飛び回っており、皆が顔を揃えるのは退庁前の15分程度だ。だから課内全員で顔を合わせて打ち合わせをしたい時は、あらかじめ日時を決めて現場検査ローテーションや各自の予定を調整しておかないといけない。

みんな揃ってる。なんか、ちょっと新鮮…。
レジメを見るふりをしながら居合わせたメンバーを横目でそおっと見渡す。

「…というわけで、今年度のファイルを修正加筆して別ファイル名で保存するやり方で、締切までにそれぞれの引継書を作っておいてください。所内サーバに入れといて頂ければ結構です。」
「私が新たに書いておいてほしい新規案件はここに列記しておきましたが、他にもあれば各自加えて下さい。私が目を通し、必要に応じ訂正や加筆をお願いすることになります。」
「引継書は、最終的に所長に提出します。」

「田中君、いいかな?」
ぼんやり聞いていたのを見透かすように、山本が銀縁メガネの縁をくいっと上げながら一平をちらりと見た。
一平が慌てて顔を上げ、作り笑いをする。
「え、ええ。大丈夫です。」
小さくため息をついた後、山本が続ける。
「新年度までもう1ヶ月ちょっと。自分が異動するという前提で、自分の後に担当する人のために、今年やってきた仕事内容を整理し、文書の所在や仕事の問題点、課題なんかを、人事異動内示の日までに書類にしとく。」
「でもって、内示が出たら、これをもとに次の担当者と引き継ぎをやってもらうんだ。」
「田中君は転勤確定なんだから、早めに準備しとくんだぞ。」
山本がまたしてもメガネの縁をくいっと上げる。

「あ、はい。」
一平は緊張した面持ちで手元のレジメを手に取り、改めて一行ずつ読み込み始める。
「大丈夫だよ。僕が手伝うからさ。」
隣の席の津田がにこりと笑った。

「改めて皆さん、あと1ヶ月少々です。来年度に向けた準備、よろしくお願いします。何か相談事ありましたら個別にお受けします。」
そう言って山本は席を立ち、小会議室を出た。

「はいはい、っと…。」
山本が出ていくのを待っていたかのように安藤がよっこいしょと立ち上がり、ごま塩頭をポリポリ掻きながらレジメの端をつまんでヒラヒラさせ、小会議室を出ていく。
一瞬、皆の視線がその後ろ姿に注がれたが、我妻は渡辺と、そして山田は津田とそれぞれ何やら話し込み始めた。

一人残された一平が所在なく立ち上がり、小会議室のドアに向かうと、背後から津田の声がした。
「あ、あとでね。」
「はい。」
振り向いて返事を返し、小会議室を出た。

もう夕刻。
事務室に帰ってもなあ…。

手持ちぶたさに細菌検査室へ行ってみると、木村が一人、細菌培養したシャーレを手にとって眺めていた。現場検査から戻ってきたばかりらしい。
「あ、お疲れさま。今終わったの?課内会議。」
「ええ。検査課は来週でしたっけ?」
「そうね…。」
返事を返すものの、木村はシャーレから目を離さない。
一平はぼんやりと試薬棚を眺める。

「年度末って、ちょっと空気が違うよね。みんな次の事を考え始めるから。」
培地上に生えてきた菌のコロニー形状を観察しながら、木村が話しかけてきた。
「そうですね。」
「もう1年経つんだよ。どうだった?」
「長かったような、あっという間だったような…。よくわかんないっす。」
一平は実験台に置いてあったマイクロピペットを手に取り、カチャカチャと弄っている。

「でもなんか、1年で保健所行くより、もうちょっと検査所やってから行きたいな、っては、思ってますけどね。」
「そうねえ。どんな仕事でも一回り3年、って言われてるらしいから、仕事と職場を覚えてもらうだけだったら、3年ぐらいで回るのがいいのかもね。」
「でも里崎ってさ、システムで人事やることにしたでしょ?」
「専門技術担当とか地域コミュニケーション担当とかさ、自分がどんな仕事に向いてて、どんな風に暮らしていきたいかっていうことを決めてもらうために、まず1回ぐるりと仕事の味見をしとけ、ってことなんだなと思うのよね。」
「味見、ですか?」
「そう、味見。」
木村はシャーレから目を離し、一平を見てにこりと笑った。

「うちの県なら、私たちがよく行くのは検査所と保健所という職域。そんで担当として、今、田中君がやってる定型業務担当に加えて、専門技術担当、地域コミュニケーション担当がある。総合調整担当はまあ、今んとこちょっと置いとくとしてさ。みんな仕事の分担や転勤ルールが違う。」

「私、専門技術担当だから、ぶっちゃけ自分のことしかよくわかんないだけど、専門技術担当って、保健所にもいるのよ。まずはそれ見てくるだけでもいいと思うの。」
「検査所の専門技術担当は、と畜検査、細菌検査、病理検査で、保健所は食品営業、食品監視、そして動物なんだ。」
「特に人作りに時間がかかる検査所の病理、保健所の営業と監視の2つは、まだ里崎食検と里崎保健所にしかいない。」
「あ、そうか。病理検査って、たまに里崎に標本送ってましたもんね。」
「そりゃそうよ。簡単な症例なら石川課長と私でもなんとかなるけど、あとはさっぱり分かんない。」
「だから分かんないやつは里崎で診断をつけてもらってるんだ。」

「そっかあ…。検査所の病理検査担当、うちにいないからなあ…。」
「んーと、そうだな…。保健所のことは正直私もよく分かんないから、行ってから自分で見てもらうとして、話のついでに検査所の病理検査の専門技術担当の人のこと、話しとくね。」
「病理検査ってさ、肉眼所見と顕微鏡で見た組織所見を学問的に正しい用語を使って正確にカルテに記述する技術が、まず求められる。もちろん、そもそもきちんと所見を取ることができる正しい組織切片標本を作る技術がないと、お話しにならない。」
「そして得られた所見を専門書や既知の膨大な症例と照合し、診断を下す。」
「こんなの、できる人からマンツーマンでみっちり習わないと、ぜーったいムリ!まさに職人の世界よ。」
「私はもっと手っ取り早いのがいいから、細菌検査にしたけどね。あ、こんな事言うと、また課長に叱られる。」
木村はペロリと舌を出した。

「里崎食検の病理担当の人なんか、凄いよ。大学の病理教室とも繋がってるし、毎年学会や研修会出てて勉強量もハンパじゃない。あの人が保健所にポンと行っちゃったら、ややこしい症例に診断つけられる人、うちの県にだーれもいなくなっちゃう。」
「本人もずっと定年まで、と畜検査と病理検査をやり続けていきたい、って言ってるらしいわ。」
「こういう人をシステムで守り、跡継ぎを作ってもらう。桐生さんはそう言ってる。」
「桐生さん、ですか…。」
「そう、人事の鬼、桐生。ね。」
木村が頭から2本、角を出す仕草をした。
一平が思わずクスリと笑う。

「私はまあ、いいんじゃないかな、って思ってる。」
「里崎システムっていう敷かれたレール、いっぺん乗っかってみるのも悪くないかもよ。あ、もう乗っかっちゃってるか。」
木村がにっこり笑った。

思わずドキリとしてしまう…。

「今度は保健所、覗いて来なさいよ。ほんでこっちが良かったら、こっち帰ってくればいいじゃん。」
「専門技術担当でなくても、山田さんや津田君みたいに地域コミュニケーション担当になって、両方やってここで暮らそ、とかね。」
「そうですね…。」

と、細菌検査室のスライドドアがガラリと開き、石川課長が巨体を揺らしてずいっと入ってきた。
「なんだお前、俺が来るまでに染色やっとけ、って言っといただろうが!」
一平は黒縁眼鏡の奥の大きな目玉でジロリと睨まれ、思わずその場で立ちすくむ。
「はい、今やってます!」
木村が実験台のバーナーに火をつけ、白金耳を焼き始めた。
「じゃあ、お邪魔しました。」
そう言い、一平はそそくさと細菌検査室を出た。

ふう、あぶねー。

足早に細菌検査室を離れた後、事務室に向かう階段をゆっくりと上る。

なるほど…。味見、ね。

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