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「いただきまーす!」 第45話

2021/03/07
 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

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第45話

70’S店内の明かりは、カウンター上のいくつかのスポットライトだけだ。

「何にしましょうか?」
マスターが一平の前に来て小さく微笑んだ。
「ウイスキー、ロックでお願いします。」
マスターが了解、と言い、軽くウインクしてカウンターの奥に戻っていく。

大戸は一平の左、2つ離れた席で一平を見ながら小さく微笑んでいる。
「今時分に一人で飲みに来ることもあるんだ。」
「いえ、こんな風に飲みに来るのは今日が初めてです。」
「へーえ…。」
大戸がグラスに残った酒をちびりと舐めた。

はい、どうぞ、とマスターが一平の前にグラスを置いた。
手に取り、ほんの少し口に含む。
とたんに強い香りが頭を突き抜け、喉がかあっと熱くなる。

こいつはやべえ…。ちょっとずついかないと…。

「チェイサー、置いときますね。」
一平の前にグラスをもうひとつ、マスターがコトリと置き、ゆっくりとカウンターの奥に戻っていく。

カウンターを挟んだ向かいの壁にずらりと並んだ洋酒の瓶を眺めながら、また少し口に含む。今度は続いてチェイサーを一口、含んでみた。
アルコールのキツさがさあっと取れ、後に芳醇な香りが残る。

ああ、これ、いいな…。
横目でちらりと大戸の様子を窺う。
大戸もグラスを片手にぼんやりと酒瓶棚を眺めているようだ。

「なあ、田中君、田中一平君だったよね?」
「あ、はい。そうです。大戸先生。」
「そう。大戸です。名前はアツシ。たけかんむりに馬と、こころざす、って書いて篤志。」
「僕は、漢字のいちに平たい、で一平です。」
「そりゃわかるよ。」
大戸が天井を見上げて高笑いする。
つられて一平もあはは、と笑ってしまった。

「どう?最近。」
「ええ。相変わらずぼちぼちとやってます。職場のみんなからもよくしてもらって。」
「そうかい。それは何より。」
大戸が酒瓶の列を眺めたまま呟く。

店内に小さな音量で流されたジャズが、二人を包み込む。
一平は一口、ウイスキーを舐めた。
「先生、郷浜食検にいたんですよね。」
「ああ。そっちの石川課長とかはそん時からの付き合いさ。あ、これは知ってたっけ。」
「はい。」
「あいつとか、その時期一緒にいた連中とは、ホントに楽しくやらせてもらったよ。」
大戸が笑いながらグラスにちょいと口をつける。

「でも、臨床やりたいと思ったから県職辞めて、開業したんですよね。」
「やりたいと思ったから、ってのはちょっと違うかな…。」
大戸が頬杖をつく。

「開業するしかなかったから、てのが近いかもな。」
「するしかなかったから、ですか?」
「そう。」

一平が自分のグラスをじっと眺めた後、ポツリと呟く。
「今、ここにいるんですけど、実の所、このままでいいのかどうか、最近よく分からなくなってきて…。」
「このままでいいのか、か…。」
「この年になったって、いまだによく分かんないよ。これからもずっと分かんないさ。多分。」
「でも、そん時そん時で自分なりに一生懸命考えて、答え出していくしかないっしょ。」
「あとは結果が悪くなろうがどうだろうが、自分で出した答えに従ったんだからと、自分を納得させながら前に進んでいくしかない。」
「んじゃね?」

「…。そうですね…。」
一平が再び自分のグラスに目を落とした。

大戸がグラスの残りをぐいっと飲み干し、カウンターにトンと置く。
「青年、俺の話をしてやろうか?」
一平が大戸に向き直る。
「いいんですか?」
「聞いてみたかったんです。」
「ここでこうやって会ったのも何かの縁だ。酔った勢いでちょいと話してやんよ。ねえマスター、同じやつちょうだい。」

大戸がグラスを持ち上げてカラカラと振り、カウンターの奥でグラスを磨いていたマスターを呼んだ。

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