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「いただきまーす!」 第48話

2021/03/28
 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

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第48話

3月。

11月以降は台風並みの強風がずっと吹き荒ぶ鉛色の空で、晴れる日なんて記憶にないぐらいだった。けれど、3月になると週に1、2回、嘘のように晴れ渡る事があった。そこここで凍りついていた雪の塊は、晴れるたびにどんどんしぼんでいき、3月中旬になると市街地からは跡形もなく消えてしまっていた。

一平を乗せた銀色の古ぼけた軽自動車は、今朝もいつものように検査所へ向かう田んぼの一本道をトコトコと走り抜けている。

もう、田んぼの雪も全部消えちまったな…。
ちょっと前まであんだけ吹き荒れてたのに。
それにしても今日は、今まで以上にスカンと突き抜けるような青空。日差しが眩しい。

うーん。春だ。

眩しさに顔をしかめながら検査所の駐車場に車を停める。
ドアを開けるとまだ風は強く、しかも冷たい。
ダウンジャケットのジッパーをぐいと上げ、玄関へと走ると、腹に響くような単気筒エンジンの音とともに、真っ赤なタンクのオフロードバイクがゆっくりと駐車場に入ってきた。

一平はバイクを見送り、玄関へと駆け込む。
玄関で内履きに履き替えていると、木村がヘルメットを持って駆け込んできた。
「うー、さむ!」
「あったり前じゃないですか。まだバイクって季節じゃないですよ。」
「わかってんのよ。でもね。こういう天気だと、つい、うずうずしちゃって。今シーズン初乗り。」
「好きっすねえ。」
「もっちろん!」
木村がショートカットの髪を掻き上げながら、ピースサインを出して更衣室へと駆けていく。

相変わらずカッコいいなあ…。

白衣に着替え、検査所2階の事務室に上がると、多くの人がもう自席に着いていた。
「おはようございます。」
あいさつをして自分の席に着く。
隣の席の津田がそっと近づき、耳元で囁く。
「いつもとちょっと違うでしょ?」
「ええ、そうですね…。」

と、山本次長が立ち上がった。
銀縁メガネの縁をくいと上げ、コホンとひとつ、咳をする。
「えー、では皆さん、ちょっと。では所長、お願いします。」
うむ、と言い、水戸所長が山本の席の隣から皆に向かって話しかけた。
「皆さんもご存じのように、今日午前中は、人事異動の内示が予定されております。」
「転出される方、引き続き勤務される方。思い通りに決まる方、決まらない方。それぞれにいろんな思いが沸き上がってくることと思います。また今日以降、現場を維持しながらの引き継ぎや引越で慌ただしく過ごされることと思います。」
「私はこの季節になるたびに思うのです。このスタッフで仕事をするのはあと10日ほど。次に全く同じ顔ぶれで仕事をするなんてことは、決してありません。まあそれは、昨年の4月1日に一同に会していた時から既に、決まっていたことなんですが…。」
「今いらっしゃる皆さんとの時間、いよいよ残りわずかとなりました。一日一日をどうか大切にしてお過ごしいただけたらと思います。」
では、終わります、と言い終わると、薄い頭をペコリと下げ、スタスタと所長室へ入っていった。

皆が一斉に席を立ち、事務室を出ていく。
津田の視線を感じ、顔を向けると、津田が目配せをした。
「さ、現場いこか。」
「はい。」
一平は、ふんむ、と気合いを入れ直し、席を立って津田の後を追った。

朝一番の現場検査。頭検査に我妻係長、内蔵検査に津田と一平が立つ。
3人とは離れた場所で枝肉検査をしているのは安藤だ。

内蔵コンベアの上流側に一平。下流側に津田。
お互いに話を交わすわけでもなく、頻繁に目を合わせるわけでもない。

けれど背後で頭検査している我妻も含め、互いに相方の気配を感じながら自分の目の前の仕事を処理している。伝えたいことがあっても相手が事前に気付き、相手と目を合わせる時には既に、伝えたいことが伝わっていて仕事の受け渡しが済んでいる。
自分が視線を移した先を瞬時に、相方が見ている。そして自分も相方が目線を移しただけでそちらに目が行き、相手の意識が向いているものが何であるか、分かってしまう。

「なんか、いいっすね。」
ようやく一平が口を開いた。
「そうかい?なら、よかった。」
津田がヘルメットとマスクの奥から覗く目を細める。

午前中の小休憩。交代の時間。
一平と津田、我妻は慌ただしく装備を片付けて着替え、検査所の事務室に向かった。もう内示が出ているはずだ。

事務室に3人が入ると、山本次長がコピー用紙を持って出迎えた。
「出たよ。これ、出入(でいり)表。」

出入表には転出する人が左の欄に、そしてその人の代わりに転入してくる人が右の欄に書いてある。
転出の欄には、我妻、石川、安藤、そして一平の名前があった。

「田中一平 郷浜保健所生活衛生課」
そうか。やっぱ保健所。
あれ?郷浜保健所?こっちの保健所なんだ…。

「郷浜保健所だね、一平君。引っ越ししなくて済んだじゃん。」
津田がにっこり笑った。
「おう、一平、俺は里崎食検だ。」
隣の我妻が頭上から一平を見下ろし、ニヤリと笑う。
続いて我妻は山本に向き直った。
「お世話になりました。」
「いやいや、こちらこそ。」
我妻は山本次長にペコリと頭を下げた後、失礼します、と所長室ドアをノックし、中に入って何やら所長と談笑し始めた。

と、パタパタとサンダルの音がして、枝肉検査のために一平達より遅れて現場検査を交代してきた安藤が、事務室に駆け込んできた。
津田が持っている出入表を引ったくると、ぎらりと凝視した。
「かわさと?川郷保健所?」
安藤は大きくため息をついた後、津田に出入表を返し、自席に着いてパソコンを開いた。もどかしそうに画面ロックパスワードを打ち込むと、県の職員用サーバにUPされている内示書を食い入るように読み始めた。

川郷保健所。その名前は一平も聞いていた。
県内4つある保健所のうち、一番規模の小さい保健所だ。ここの生活衛生課が所管する食品や旅館業、理容・美容業の営業施設の数は、県内で最も少ない。
所管する施設数が少ないから保健所のスタッフ数も少ない。なので、食品と動物だけでなく、旅館・ホテル業や、温泉、理容・美容業まで全部やんなきゃいけないらしい。
その上、川郷は山に囲まれた盆地のため、保健所のある中心市街地から山に向かって何本も放射状に伸びる沢に沿って集落が点在し、そこにさまざまな営業施設がある。交通の便が悪く、1日に何件も回ることができない、って聞いている…。

はたとあたりを見回すと、皆、パソコンを開いて内示書に見入っていた。
「僕も内示書見よっかな。」
津田も自席に着いてパソコンを開き始めた。

俺、自分とここの職場の人ぐらいしかまだ分かんないから、見てもしょうがねえかもな…。

手持ち無沙汰に事務室を出ようとすると、所長室から出た我妻とすれ違った。
「おい、一平。まず次長と所長にあいさつしとけ。それからすぐに郷浜保健所生活衛生課に電話一本入れとくんだぞ。」
「あ、分かりました。保健所って、誰に電話すればいいんですか?」
「電話に出た奴に、今度お世話になる田中です、って言えば、電話の先で誰かにつないでくれるさ。」

あ、そんな感じなんだ…。

まずは次長と所長、だな。
次長席を向くと、山本次長と水戸所長がにこにこしながらこちらを見ている。
近づいてペコリと頭を下げる。
「所長、次長、お世話になりました。」
「いやいや、色々ありがとうね。保健所でも頑張って。」
山本次長が応じる。
「はい、ありがとうございます。」
「田中君、あちらの皆さんにもよろしくね。」
水戸所長がにこにこしながら手を振った。
「はい。」
一平は所長にペコリと頭を下げ、自席に戻ると受話器を取った。

えっと、郷浜保健所生活衛生課は、っと…。

短縮ダイヤルを押し、受話器を耳にあてる。
呼び出し音を聞いていると、段々緊張感が増してくる。
2コールで相手方が出た。女性の声だ。
「はい、郷浜保健所生活衛生課、石野です。」
「あ、えっと、あの…。私、今度お世話になります、郷浜食肉衛生検査所の田中と申しますが…。」
「郷浜食検の田中さん?あ、ああ!今度来る田中さんですね?」
「あ、どうも初めまして。」
「初めまして。こちらこそよろしくお願いします。あ、課長か補佐ですよね?ごめんなさい、今、二人とも打ち合わせに出ちゃってて。電話あったこと、お伝えしておきますね。」
「これからの予定なんかも、多分うちの補佐から連絡行くと思いますんで。」
「あ、はい。よろしくお願いします。」
失礼します、と受話器を置いた。

ふう…。なんかすんごい緊張した…。
後ろで電話鳴ってたな…。

津田がニヤリと笑う。
「誰が出た?」
「石野って、女性の方でした。」
「ああ、石野さんか…。あっちで会ったらよろしく言っといてね。山田主任とツーカーの仲なんで、なんかやらかすとみんなこっちに筒抜け。だから、気を付けろよ。」
「えー!そうなんすか!やだなあ…。」
津田が、ははは、と笑う。
「大丈夫だって、いい人だから。色々聞いたらいいさ。」
「あ、ところで内示書って、どうやって開くんですか?」

ああ、ここを開いてここに行くとあるから、ほんで見方は、さ…。
津田から教わりながら、内示書のpdfを見る。

まず1ページ目に、聞いたこともない名前がずらり。
えっと、総務部長が何の誰べえ、何やら部長が何のかにかに…。
字が大きく行間も開けてある。なんかとてもうやうやしく、もったいつけている感じ。どんどん次ページを見に行くが、何ちゃら課長とか、かんちゃら補佐とかが延々と続いている。役職が低くなるにつれ、どうも字が小さく行間が狭くなっていくようだ。

変なとこ、こだわってんだな…。

「俺、どこに書いてあるんすか?」
「え?そんな上になんかないってば。何人いると思ってんの。自分の見たいんだったら一番最後から見なきゃ。」
津田が文末にカーソルを飛ばす。
「はい、こっから上がってって。部局ごとにまとまってるから、検査所とか保健所が出てきたらその辺探すとあるよ。」

ああ…。人の名前見すぎて、だんだん気持ち悪くなってきた…。

あ、里崎食肉衛生検査所 若林亮太…。
若林君、里崎の検査所か…。
俺は…。あ、あった!
郷浜保健所生活衛生課 田中一平。

まあ、あるか…。あるよな、そりゃ。
わかってんだから改めて探す事でもないのに、何やってんだろ…。

津田は隣で同じ内示書を見ながら、しきりにへえ、とか、はあ…。とか呟いている。
まあ、俺もそのうち、なんか分かるようになってくんだろなあとぼんやりしていると、パタパタと足音がし、木村が事務室に戻ってきた。続いて石川課長がのっそりと入ってくる。午前中の後半の現場検査を担当していたメンバーが帰ってきたようだ。

木村が振り返り、背後の石川と目を合わせる。
石川がずいと前に出て、事務室に向かって開かれた所長室のドアをコンコン、とノックした後、木村と共に中に入った。
なにやらぼそぼそと話し声がした後、「ええー!」と水戸所長の大きな声がした。
所長が慌てて所長室から飛び出してきて、中にいる二人にちょっとこっち来て、と手招きをする。
のっそりと石川が巨体を現し、所長室ドア脇の山本次長の席の隣に立った。
山本が怯えるような目で石川を見上げている。
木村は石川の脇にちょこんと立った。

「あのさ、さっきの、みんなにも言ってくれる?いいよね?」
所長が石川を促す。
石川はポリポリと頭を掻いた。
事務室に居合わせた者みな、ぽかんとした顔で二人を見ている。
「えーと、実はですね、木村真知子さんを嫁さんにすることにしましたんで。」

「はぁああああっつ!!!!○▲※!!!???」

びっくりした一平は、思わず机の上のファイルをドサドサと床に落としてしまった。
拾い上げながら津田の方を見ると、津田は我妻や、石川達と共に現場検査から帰ってきた山田と目配せをしながらニヤニヤしている。

「はい!おめでとうございます!」
山田の声が事務室中に響き渡ると、皆が弾けるように、一斉におめでとうの声を上げた。
なんだよ、知らなかったぞお、おいおい、やるじゃねえか、と皆が石川の巨体を小突き回す。
木村はたちまち女性陣に囲まれ、お祝いの言葉に包まれた。

「…。知ってたんですか?」
一平が津田に囁く。
「二人からは何も聞いてなかったけど、まあ、何となく、ね。」
「でも感づいてたのは、僕だけじゃなかったみたいだねえ。」
「今日の感じだと、どうやらあの二人、所長にもまだ言ってなかったんだね。」
一平の顔がみるみる赤くなる。
「木村さん、なんで石川課長なんすか!」
「さあねえ。なんでなんだろねえ…。面白いねえ。」
うろたえる一平になどかまいもせず、津田は腕組みしながら二人を眺め、ニヤニヤしている。

「わっけわかんねえ!」
一平は思わず頭を抱えて机に突っ伏した。

ち、ちょっと待ってくれよ!
よりにもよって、なんであんなムサい四十男なんだよ!
なんであんな図体でかいグリグリ目玉なんだよおおおお!
なんでだああああっつ!!!

心の中で絶叫する。

ああ…。頭が真っ白になってきた…。
なーんも考えられねえ…。

と、電話が鳴り、津田が電話を取った。
「所長、県庁衛生課からお電話でーす!」
「えー!ち、ちょっと今、いいところなんだけどなあ…。まあいいよ、所長室で取るよ。」
水戸所長が津田に手を振り、後ろ髪を引かれるように所長室に戻った。
所長の後を引き継ぐように、山本が石川に尋ねる。
「さしあたり春からはどうするの?木村さんはここだし、石川君は里崎食検だよ。」
「大峠町にある貸家に入るんで、そっから通うことにしました。ここと里崎の中間点なんで。」
「まあ中間点って言えばそうだけど、なーんもない山里だぞ?石川さんはいいとして、いいの?木村さん。」
「山の一軒家で暮らせるなんて、最高です!次長も遊びに来てくださいね!」
嬉々として答える木村を、山本はポカンとした顔で見る。
「しっかし驚いたねえ…。ねえねえ、いつごろから…。」
「次長!そんなのいいから!ねえ石川さん達、婚姻届とかどうなってんの!」
総務担当の女性職員が叫ぶ!
「あ、今日これから出しに行こうかなって…。」
木村が恐る恐る答えた。
「そんなら行こうかな、じゃなくて、早く行ってきなさい!あー、もうどうしよ!あとでなんやかんや書類頼むからね!」
はあーい、と石川と木村がのんびりとした返事を返した。

長い電話が終わり、水戸所長が所長室から出てくる。
「ふう、やっと終わったよ。で、そもそもいつごろから…。」
水戸所長が木村に話しかけると、とたんに電話が鳴り、今度は山田が受話器を取る。
「しょちょー!里崎保健所の課長からお電話でーす!」
「え!またあ?もう、やんなっちゃう…。」
水戸所長は、じゃあこっちで、と言い、またしてもすごすごと所長室に戻っていった。

しばし腹を抱えて笑い転げていた山田は、石川に近づいて腹を小突いた。
「まあ、ちょっと落ち着いたら、いっぱい聞かせてもらうわよ。覚悟しといてね。」
へへっと石川が笑った。

椅子に座り込んだまま、すっかり魂が抜けてしまったように天井を仰いでいる一平の肩を、津田がポンと叩く。
「あのさ、もう午後の現場の時間だよ。行くよ。」
「ああ…。つださあーん…。俺、もう立てないっす…。」
「何言ってんの!ほれ、立って!」
よっこらせっと一平を椅子から立たせ、棒立ちの一平をそのままに、津田がすたすたと事務室を出た。

しばし天井を見上げていた一平は両手で顔をゴシゴシと擦った後、石川と木村の目を避けるようにして事務室を飛び出した。

検査所の通用口から外へ出て、と畜場正面玄関へと走る。

ふと見上げた空は、朝にも増して、青い。
春めいたとは言え、まだキンキンに冷えている冬の風が、火照った頬を冷やしてくれた。

「むん!」

ヘルメットを掴み直し、と畜場正面玄関の自動ドアに滑り込んだ。

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