長く勤めた自分にしか書けない、そんな記事を。

「いただきまーす!」 第49話

2021/04/04
 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

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第49話

「よっしゃ、交代だ、田中君。」
「はい、お願いします。」
枝肉検査台で松田と交代し、と畜場2階の検査員控室に戻る。
グローブを外してヘルメットを脱ぎ、ざぶざぶと顔を洗う。
「ぷはー。」
インスタントコーヒーをさらさらとマグカップに入れて電気ポットのお湯を注いだ後、マグカップをテーブルにコンと置いて椅子にどっかりと座り、隣にあるもうひとつの椅子に足を投げ出した。

人事異動の内示が出た日からは、変則シフトで現場検査を回している。
少ないメンバーが半日出ずっぱりとなり、短い時間で交代しながら休憩を取っていくやり方だ。

この時期は出ていく者、残る者、それぞれに大忙しだ。

年度末はその年度をシメる作業があるため、ただでさえいつもの月より業務量が増える。
そんなタイミングで、出ていく者は後からくる者へ引き継ぎし、また、自分も次に行く公所へ前もって出掛け、前任者からの申し送りを受けなければならない。
転出者にとって、一番大変なのは引っ越しだ。
今住んでる住居の退去連絡や今度行く先の住居の確保から始まって、引っ越し業者の手配、市役所での住所変更や電気ガス水道の手続きをしながら、合間を見てはせっせと部屋を片付け、夜なべ仕事で荷造りするはめになる。
妻子を連れての転勤となれば、これに保育園や学校の手続きがずしりと重くのしかかってくる。
こんなお祭り騒ぎを、内示が出た日から4月1日までの、たった10日余りで完了させなければならないのだ。

そして転出者ができなくなった通常業務は、残留組が一手に引き受けるはめになる。
郷浜食肉衛生検査所でも毎年恒例のてんやわんや騒ぎの中で、あっという間に今年度の最終日を迎えた。

午後。
現場検査も終わり、細菌検査室では松田と一平が一日の検査作業を終え、器具類の片付けをしていた。

「なんかあっという間だったなあ…。」
一平が実験台にアルコールスプレーを吹きかけ、ペーパータオルで清拭しながら呟く。
「まあ、いつもの事、と言っちゃえば、それまでですけどね…。」
松田が三角フラスコを片付けながら頷いた。
「松田さん、残留ですね。」
「うん…。転勤ないと正直ちょっとほっとするんだけど、春からの新メンバーでどうなってくのかな、とか、不安だったり…。なんとも言えず複雑なんだよなあ…。」
「僕は保健所ってやってけんのかな、って、すんげえ不安です。」
「引き継ぎとか、あったの?」
「いえ、僕の場合、来てから教えるんで、引き継ぎなしでいいですって言われまして。」
「あ、そうなんだ。だよねえ。初めてなんだもんな。」
「ええ。だからもうドッキドキですよ。」
「はは…。初々しいなあ。そんな時あったっけなあ…。」

と、細菌検査室のスライドドアがガラリと開き、木村と石川が言い合いしながらドヤドヤと入ってきた。
「いっぺんチャラにしてくれ、って、一体何なんですか、まったく!」
「しょうがねえだろ、相手方の事情なんだから。」
怒り心頭の木村の目が、怯えるような松田の目と合った途端、木村がまくし立てた。
「ねえ聞いてよ、松田さん。君島食検の結城さん、異動になっちゃって誰も引き継げる人いなくなっちゃったから、LAMPの共同研究の件、いっぺんチャラにしてくんないか、って君島の課長さんから言われちゃったのよ!」
「え、そうなんですか!」
「それだけじゃないの。他に手を上げてくれた検査所も似たような事言い始めてるらしいって…。」
「どうしよ…。」
木村が実験台に両手を付き、うつ向く。

「お前がやることは、何も変わらん。」
石川がゆっくりと話し始めた。
「学術的に優れた手技であることを全国の検査所の細菌検査担当者に広く認知させ、使ってくれる公所をひとつでも増やす。これだけだ。」
「他の公所での試行データと一緒に論文化するのがベストだったが、それを待っていると他の奴に横取りされる恐れがある。だからまず、急いで手元にあるデータだけでまとめて、どこでもいいから素早く短報を出してしまい、このテクニックのオリジナルは自分なんだと周囲に宣言しとくんだ。」
「それと並行して、改めて共同研究者を募ればいい。」
木村はうつむいたまま、黙って聞いている。

「大体な、俺に言わせりゃここまでだって順調過ぎるくらいだぜ。」
「いいか。諦めずに仲間を募れ。そうすりゃ必ず、結城のような奴がまた現れる。」

と、細菌検査室の内線電話が鳴り、松田が受話器を取った。
「はい、細菌室。え?木村さん?はい…。」
松田が電話を保留した。
「木村さん、君島食検の結城さんからお電話です。」
木村が石川を見る。石川は黙って頷いた。
「わかりました。上で取ります。」
そう言い、木村は細菌検査室から駆け出して行った。

事務室の自席に着き、木村が受話器を取る。
「お待たせしました、木村です。」
「あ、木村さん?君島の結城です。ああ、つながってよかったあ。そっちの課長さんと話したからって、うちの課長から聞いてさ。」
「…。結城さん、転勤なんですか?」
「そう。県庁行けって。」
「県庁ですか…。」
「そうなんだよ。いやあ、まいったなあ…。」
「あ、それでさ、LAMPの件、なんだって聞いてる?」
「君島はいっぺんチャラにしてくんないかって。手を上げてくれた他の検査所も似たような事言い始めてる、って。」
「あちゃあ…。うーん…。外れちゃいないけど、まあ、聞いてくれる?」
「…。はい。」
「君島で引き継ぐ人がいなくなっちゃったのは、申し訳ないけど、ホント。」
「俺か課長のどっちかがいれば大丈夫と思ってたんだけど、両方とも出ることになっちゃってさ。本当に申し訳ない。」
「いえ。結城さんのせいじゃないんで…。」
「でもね聞いてくれる?俺の声かけに応えてくれた検査所のうち、2つは担当が残留してるんだ。彼らに郷浜の木村さんにコンタクトしてみてくれって頼んどいたよ。彼らは課長さんが変わるみたいだけど、なんとかなるかも。」
「え!そうなんですか!」
「木村さんからも接触してみて。担当と連絡先、言うね。」
結城から聞いた連絡先をすかさずメモする。

「こんなことしかできなくて、本当に申し訳ない…。」
「とんでもないです。時間ないのにご紹介いただきまして、ありがとうございました。」
「俺、ほんとガッカリだよ。なんでこんな形でぶっちり切られちまうんだかねえ。」
「私も本当に残念です。」
「…。あのさ、木村さん。」
「はい?」
「俺とか木村さんみたいな奴、まだどっかにいるよ。」
「だから諦めないで、ね。」
「…。」
「あれ?笑ってる?」
「いや、今しがた、うちの課長からおんなじこと言われたばっかりなんです。」
「あれ、そうだったんだ、こりゃ参ったな。」
電話口から結城の笑い声が聞こえる。

「ところでうちの課長に聞いたんだけど、そっちの課長さん、今度、里崎食検だって?」
「ええ。」
「いやいや、石川さんほどの人はそういないってば。経験踏んでるだけじゃなくて、日々情報仕入れてアップデートしてる。俺らが思っても口に出せないようなこと、重鎮クラスの先生にだってバンバン言っちゃうしね。」
「結城さんに誉められましたよって、課長に言っときます。」
「あ、勘弁!内緒にしといて!若造のくせに俺つかまえて何ぬかす!って怒られちゃう…。」
「それ、言いそう。」
クスクスと木村が笑う。

「じゃあ、またお会いしましょう。どこでどういう形になるか、わかんないけどね。」
「ありがとうございました。お元気で。」
木村がゆっくりと受話器を置いた。

電話を終えた木村がふと事務室を見渡すと、だいぶ人が集まってきていた。年度末の最終日には、退庁前の時間に転出者への辞令伝達が行われる。
「では、皆さん、会議室へ。」
山本が声を掛け、皆を促す。

会議室正面のホワイトボード前に水戸所長。その隣に山本次長。
二人に向かい合うように4人の転出者が並ぶ。
転出者から数歩後方に残留者が集まっている。

「では辞令伝達を行います。」
山本の声にうむ、と頷き、山本から名前を呼ばれた者が所長の前に進み、水戸所長が一人一人に辞令を伝達していく。
一平は最後だ。

山本次長から呼ばれ、一平が水戸所長の前に進み出る。
「田中一平、郷浜保健所生活衛生課獣医師を命ずる。」
伝達し終えると、水戸所長がにっこり笑った。
「元気で。」
「はい。」
一平も笑顔で返した。

「それでは辞令伝達を終わります。」
山本の声を合図に、皆が会議室を出ていく。
転出者にはそのまま退庁してもらい、残留組が皆で見送るのが習いのようだ。
階段を降りながら皆からいってらっしゃい、元気でね、と声をかけられる。

津田が一平に駆け寄ってきた。
「季節が良くなったら、釣り、行こうよ。また誘うからさ。」
「ええ、ぜひ!あ、赤ちゃん生まれたら絶対教えてくださいよ!」
「分かってるって。」
津田がぐいと親指を立てた。
二人の間に山田がぐいと顔を突き出す。
「がんばれよ!一平!」
「あ、はい。」
笑顔で山田に応じながらふと振り返ると、後ろで石川と木村がにこにこしながら一平を見ていた。
「課長!僕も山の一軒家、お邪魔してもいいですか?」
「おう、待ってるぞ!庭先野外ライブ、決行すっからな!」
石川が手を上げた。
木村は石川の隣で微笑みながら、ゆっくりと頷いている。

自分の内履きを持ちながら検査所の玄関を出ると、先に出て車に向かって歩いていた我妻が、一平に振り返り、手を上げた。
「じゃあな、一平!また会うぞ!」
「はい、係長もお元気で!」
手をブンブン振りながら大声で返した。
我妻はニヤリと笑い、大きな背中を折り畳むようにして車に滑り込んだ。

一平も自分の車のドアを開け、シートに座る。
キーを差し、エンジンをかけた。

検査所の玄関を見ると、皆がまだこっちを見て手を振っていた。
車の中でペコリと頭を下げた後、ゆっくりと車を出す。

田んぼの一本道を、またしてもトコトコと走る。

明日から保健所。
まあ、やってみるしかねえよな…。

車のハンドルを握り直し、少しだけアクセルを踏む。

茶色く乾いたままの田んぼがどこまでも広がる中、一平の古ぼけた銀色の軽自動車が、夕日に照らされて一瞬、鮮やかな色を放った。
やがて光は輝く銀色の帯となり、ずっと遠くにうっすらと広がる市街地へと消えていった。

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