長く勤めた自分にしか書けない、そんな記事を。

「いただきまーす!」 第50話

2021/04/11
 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

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第50話

朝。
今日も晴れ、らしい。ここんとこ毎日、晴れている。
こんなに晴れるんなら、そのうち1日でもいいから、冬に晴れてくればればいいのになあ…。

一張羅のくたびれたスーツを着込み、いつもより1時間早く車に乗る。スマホをホルダーにセットし、ナビに「郷浜総合支庁」と入力。
ゆっくりと車を出した。

えっと、こっちか…。

今までと全然違う方向に車を走らせる。
あっという間に市街地を抜け、またしても田んぼの風景が広がってきた。

郷浜市の隣町へと向かう幹線道路沿いの田んぼの中に、5階建てのコンリート造の建物がいきなりズドンと建っていた。郷浜市とその周辺町村を所管する地区を所管する様々な官庁が同居している、郷浜総合支庁の庁舎だ。

こん中か…。保健所って言うから、てっきり独立したひとつの建物だと思ってたんだけどな…。

建物自体は結構古い。てっぺんになにやら巨大なアンテナが立ち、すぐ脇に旗の掲揚ポールが三本並んでる。正面駐車場なんてサッカーができそうなぐらい広い。
恐る恐る正面駐車場の端っこに車を停めた。バックミラーでネクタイの曲がりを整えた後、車を出て、正面ホールの自動ドアから入る。

えっと、生活衛生課は、っと…。
西棟2階の奥、か…。

薄暗い階段を見つけて2階に上がると、2階フロアは階段よりさらに暗い。
なんとか「生活衛生課」というプレートを見つけてドアを開ける。
朝8時を過ぎたばかり。蛍光灯は点いておらず、中は廊下同様、薄暗い。北向の窓から弱い光が入ってくるだけだ。
一平が開けた入り口ドアのすぐ手前に、数人掛けるといっぱいになりそうなカウンターと丸椅子。カウンターの奥には数個ずつの島机が3つ。あとは上司が座ると思われる上席の机が窓際に二つ並んでいた。上席の隣には2~3人しか座れなさそうなテーブルに丸椅子が数個。

くっら…。

カウンター前にぼんやり立っていると、背後からパタパタと足音がしてパタンとドアが開き、20代くらいのセミロングヘアの女性職員が朝刊を抱えて入ってきた。

「あ、おはようございます。」
「えっと、おはようございます。あの、私、今日からお世話になります、田中と申しますが…。」
「あ、田中さんですね、初めまして。私、木内と言います。よろしくお願いします。」
木内がにっこり笑い、ペコリと頭を下げた。
「よろしくお願いします。えっと…。」
「あ、みんな間もなく来ますから、中のテーブルでお待ちいただけますか?」
「すみません。では失礼します。」

所在無げに窓際テーブルの丸椅子に腰掛ける。
テーブルに木内が置いた朝刊の見出しをぼんやり眺める。
4月1日、か…。

窓から見える正面駐車場には次々と車が入り、スーツを着込んだ人達がどんどん庁舎内に入ってくる。

なんかえらいとこに来ちゃったな…。

と、衛生課のドアが開き、課の人達が一人、二人と入ってきた。そのたびに一平は立ち上がって自己紹介、そして着席、を繰返す。けれど、人の顔と名前なんて頭に全く入らない。

居場所がねえ、てのはこのことだな…。

一平が再び新聞の1面見出しに目を落とすと、ドアから入ってきた小柄で銀縁メガネをかけた男がするすると一平に近づいてきた。
「おはようございます。課長の長沢です。」
あわてて丸椅子から跳ね上がり、ぴょこんと頭を下げる。
「郷浜食検から来ました、田中です。よろしくお願いします。」
「あはは。そんな緊張せんでいいよ。あ、吉田さん、こっち。」
課内に入ってきた細身で長身の男に手招きをする。
「こちら、田中君。」
「課長補佐の吉田です。」
「田中です。お世話になります。よろしくお願いします。」
「こちらこそよろしく。」
吉田はゆっくりとした口調で返した。
長沢課長が一平を見ながら指差す。
「あそこが君の机。食品衛生担当だよ。」
指差す先の島机は、カウンターのすぐ前にあった。一平の机は一番カウンターに近い側にある。係の人達は皆すでに着席していて、こちらの様子をちらちらと伺っている。

一平は食品衛生の島机に近づき、ペコリと頭を下げた。
「郷浜食検から来ました、田中と申します。よろしくお願いします。」
係のリーダー格と思われる40代くらいの白髪頭の男性職員が立ち上がる。
「松本です。こちらは安部さん、そして羽山さん。みんな薬剤師だ。」
安部と呼ばれた30代くらいの男、そして安部より少し若いかな、と思われる羽山と呼ばれた女性が立ち上がり、にっこり笑いながらペコリと頭を下げた。

松本が続ける。
「この4人でやっていきます。よろしくお願いします。」
「田中君は、ここだよ。」
松本に言われた席にちょこんと座る。向かいは羽山さんだ。
「よろしくお願いします。すみません、初めてなんで、ご迷惑お掛けします。」
「いえいえ、こちらこそよろしくお願いします。」
羽山がチャーミングな笑顔でにっこり笑う。
「田中君、最初は羽山さんについててもらって、覚えてもらうからね。」
松本が言うと、すかさず安部がにやにやしながら口を挟んだ。
「この人、こう見えて結構スパルタなんで、気を付けろよ、田中君。」
「あら、そんなことありませんよ。こんな優しいお姉さんつかまえて、何言ってるんですか。」
「ほー、よく言うねえ。まあ、俺から教わったようにやれば、田中君もすぐに一丁前になるさ。」
安部がけらけら笑う。
それを聞いた羽山が、ふんと鼻を鳴らす。
「私が安部さんから教わったときなんか、ひどいもんだったのよ。この人、放任主義だから、どこだってなんだってほれ行け、ってぽいっと出されてそれっきり。」
「私は一人で乗り切ってきたんだからね。」
羽山が安部をギラリと睨んだ。
「羽山さんのそういう勝ち気な性格を見抜いて、あえてそうやってたんだってば。わっかんないかなあ…。」
安部が天井を見上げて大笑いした。

乳肉の島から一人の女性が近づいてくる。
「石野です。乳肉衛生。よろしくね。」
「あと、うちの係に高山がいます。今年の獣医は私達3人よ。またあとでね。」
石野が乳肉の島へ帰っていく。石野の隣の席に男性が一人立って、一平に手を振りながら会釈をした。高山らしい。

あ、朝会った人、木内さん、だったっけ。あの人も乳肉なんだ…。

間もなく課内の蛍光灯が一斉に点けられた。始業時間になってから明かりを点けるルールになっているようだ。
課長補佐の吉田が手を上げる。

「では、朝ミーティングを始めます。まずは新任の方をご紹介します。では皆さん、前へ。」
一平の他、数名が課長席の前に並び、一人ずつ自己紹介した後、一旦自席に戻る。

郷浜保健所生活衛生課は、生活に密着する営業の許認可や狂犬病予防、動物愛護業務を行っている。3つの島机はそれぞれ、乳肉衛生、食品衛生、営業衛生の担当の島だ。

乳肉衛生は畜水産食品の営業施設を担当するほか、狂犬病予防業務、動物愛護業務を担当する。スタッフは獣医師と薬剤師、それに、若干名の狂犬病予防技術員だ。技術員さんは動物の収容や保護、飼い主への返還や譲渡の仕事を手伝っている。
食品衛生は畜水産食品の営業施設を除く、全ての食品営業施設を担当する。全員が薬剤師か獣医師だ。
営業衛生は旅館・ホテル、公衆浴場、理容・美容、温泉、興業所、墓地埋葬関係を担当している。化学職と行政職という構成だ。
課長と課長補佐は、ともに薬剤師。
生活衛生課はこんなさまざまな職種の人達で構成されている。
ほぼ全員が獣医師という食肉衛生検査所とは、全く職場の雰囲気が違う。

また、生活衛生課は保健所を構成する課のひとつ。
保健所の他の課には保健師さん、栄養士さんなどなど、多種多様な資格を持つ職員がいて、「人の暮らしと健康を守る」という大目標を達成すべく、各自の守備範囲でせっせと仕事をしている。これが保健所だ。
保健所にとって、獣医なんて職種は、ほんの一部に過ぎない。

そして里崎県では、一平が入るよりだいぶ前に、かなりややこしいことが起こっていた。
里崎県には県の各エリアを総合的に所管するために4つの総合支庁が設置されている。この総合支庁の機能強化の一貫として、保健所は各総合支庁の一部機関としての顔を併せ持つ、という形に整理されることになったのだ。

これまでの「保健所生活衛生課」は、「総合支庁生活衛生課」という2枚目の看板を併せて背負わされ、今まで入っていた単独庁舎を引き払い、各総合支庁の庁舎にぎゅっと押し込められた。
この時点で生活衛生課は、今までのボスである保健所長に加え、総合支庁長という、2人目のボスを担ぎ上げて仕事をしていくことになった。

この日一平は、同じ保健所の転入者全員と共に保健所を構成する各課のほかに、総合支庁の各部局や課、総合支庁長への挨拶回りに引き回され、あっという間に午前中が終わってしまった。

「ただいま戻りました。」
庁舎内の挨拶回りに疲れ果て、どっかと自席の椅子に座る。
「お疲れ。」
安部が軽くウインクした。羽山はカウンターで接客中だ。
「田中君、羽山さんのそばで見てて。」
安部がくいっとカウンターを見やる。
「あ、はい。」
羽山の斜め後ろに丸椅子を置き、そっと座って聞き耳を立てた。
カウンターを挟んで30代くらいの女性が座っている。

「それではここにお店の図面を書いてください。簡単で結構です。」
「前に入っていた人からそのまま居替わりなんで、大丈夫だと思うんですけど…。」
「そうなんですね。でも許可取ってから営業者さんがどっか直しちゃったりすることもありますから、今どうなってるのか、皆さんから書いてもらっているんですよ。」
「へえ。そうなんだあ。」

女性は渋々、店の見取り図を書き始めた。カウンターひとつに丸椅子が数個。あとはボックス席が2つ。小さなバーのようだ。
「カウンターの中のコンロや流し、手洗いや冷蔵庫も書き入れてください。」
女性がうーんと、えーと、と言いながら図面に書き入れていく。

「こんな感じかな?」
「あ、結構です。じゃあひとつずつお伺いしますね。」
「ここのカウンターと客席とのにはアオリ戸ついてますか?」
「アオリ戸?ああ、パタパタ、ね。」
「そう、パタパタ。」
「なんかカウンターの隅っこに転がってたけど。」
「それ、つけといてください。」
「え、要るの?邪魔だからないほうがいいんだけどな。」
「食べ物を扱う所と客席には仕切りがないとダメなんです。その仕切りがパタパタなんですよ。」
「ふーん…。」

「ここの流しは2槽になってますか?」
「ええ。」
「冷蔵庫は閉めたまま中の温度が見えるようになってますか?」
「なんか、線がついててマグネットでペタンとくっつくような温度計があったわ。」
「それで結構です。」
「このお店、窓はあるんですかね?」
「雑居ビルの1室なんで、換気扇だけ。ないわね。」
「トイレはどこですか?」
「ここよ。」
「手洗いはトイレについてますか?」
「ええ。」

あと、ここはどうなってますか?お刺身は出しますか?お弁当を出す予定はありますか?などと、羽山は次々と聞いている。
「なんかいっぱい聞かれんのねえ…。」
「すみません。お店でどんな食事をお出しするのか、それによってお店の許可に必要な設備なんかが変わってくるもんですから。」
「そうなんだ…。」

やりとりが一通り終わった後、羽山が言う。
「それではお店と設備がこの図面どおりになっているかどうか、実際にお店にお邪魔して確認させていただきます。」
女性と日程を約束し、営業許可申請書を受け取る。女性はじゃあ、よろしくお願いします、と言って丸椅子から立ち上がり出て行った。

羽山がふう、と小さく息をつき、カウンターでトントンと書類を整える。
「お疲れさまです。」
一平が声をかけた。
「さ、午後からやってもらうわよ。」
「は?」
「これ見て、このとおりに説明していけば大丈夫だから。」
そう言うと、一平に説明用のパンフと申請書類一式をパサリと手渡した。

「じゃあ、お昼にしましょ。明かり消しまーす。」
課内の明かりをカウンターだけにした後、羽山はにっこり笑い、自席に着いて弁当を広げ、むしゃむしゃと食べ始めた。
隣の安部が肩をひくつかせて笑いをこらえている。

おいおい、昼飯どころじゃねえぞ…。

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