長く勤めた自分にしか書けない、そんな記事を。

「いただきまーす!」 第51話

2021/04/18
 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

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第51話

「こんにちは。どうぞお掛けください。」
一平に勧められ、生活衛生課のカウンターに来た中年の男性が、椅子に腰を下ろす。
「今日はどういうご相談で?」
「あの、美容院のことで…。」
「あ、はい、わかりました。担当をお呼びしますので、少々お待ちください。」
溝橋さん、美容院のご相談です、と、一平が営業衛生担当の溝橋を呼ぶ。

再びガチャリと生活衛生課のドアが開く。
今度は年配の女性だ。
「こんにちは。」
一平が立ったまま女性を迎える。
「あの…。うちの犬を引き取りに来たんですけど…。」
「はい、お待ちください。」
引き取りの方が見えました、と、乳肉衛生担当の木内を呼んだ。

すぐさま次の来客。中年男性だ。
「こんにちは。」
「寿司屋の開業の件で…。」
「はい、お掛けください。それではお伺いします。」
一平が男性から詳しい話を聞こうとすると、続けざまにもう一人の男性客が入ってきた。
「居酒屋やるんだけど…。」

静かに羽山が自席を立ち、一平の耳元で囁く。
「お寿司屋さん、私がもらうから、居酒屋さん、お願い。」
一平はコクリと頷くと、居酒屋の開業の相談に来た男性とカウンターを挟んで向かい合った。

相談者がかたまって押し寄せ、小さなカウンターはもう満席だ。

「フグをお出しする場合の手続きは…。」
羽山が説明している隣で、溝橋が中年男性に美容院開設のための申請書類一式を出した。
「じゃあまず、ここに新しく開く美容院の部屋の中のレイアウト、書いてもらえますか?」
その隣で、自分の犬を引き取りに来た年配女性が、木内に呟く。
自宅を逃げ出してしまい、見かけた人からの通報で保健所が保護していたのだ。
「あの子、自分で勝手にどっか行っちゃうはずないのよ。なんでかしら…。」
「あ…。そうなんですね…。なんででしょうかねえ…。」
木内が苦笑いしながら応じる。

その隣で一平が居酒屋の相談者と向き合っている。
「だからさ兄ちゃん、俺は都内で何年もやってきたんだって。大丈夫だから。」
「いや、そう言われましてもですね、えっと…。」

と、ドアが開き、安部が外回りから帰ってきた。
戻りました、と小声で言い、カウンターを通り自席にどさりとカバンを下ろすと、なにやら課長に小声で囁いた後、一平の肩を叩いた。
「じゃ交代。外で松本さんが待ってるから。」
安部の声に正直少しほっとしつつ、あ、はい、じゃお願いします、と安部と交代してカバンを担ぎ、急いで衛生課を出る。

総合支庁庁舎内の階段を駆け下り、庁舎内売店の前に出ているパンの出張販売に立ち寄って、いつものふたつ、というやいなやカツサンドを二つ引ったくり、庁舎を飛び出した。総合支庁庁舎の正面玄関前の駐車場には、松本が待つ白い公用車のバンが停車していた。
「お待たせしました。」
公用車の助手席に一平が滑り込むと、松本が静かに公用車を出す。

公用車は総合支庁を離れ、郷浜市内に向かう。
一平は助手席でカツサンドの袋を開け、大きな口でかぶりついた。
「いつもそれなんだ。」
松本が運転しながら苦笑する。
「ほんと、旨いんですよ、これ。」
「にしても、この1週間、そればっかじゃない。」
「たまたまみつけたんですけど、なんか、飽きないんですよねえ。ここんとこ晩飯もこいつです。」
「若いなあ…。旨いのは分かってんだけど、俺は1個食ったら胃にどかっと来そうだよ。」
「そんなことないですよ。これ、カラシ効いてて何個でもいけますって。」
「さすが20代は違うねえ。」
「いや、ともかく食わなきゃ、って体が言ってる気がして…。」
「へえ…。そんな感じなんだ。」
松本がニヤリと笑い、ウインカーを出して繁華街の路地裏に入っていく。

郷浜保健所生活衛生課へ赴任したばかりの一週間、一平は午前中はカウンターで接客や食品営業申請者の受付業務、午後は食品営業許可のための施設への事前立入調査、帰庁してからは申請書類を整理して許可を出すための起案・決裁書類を作って上司に提出、というスケジュールを、ひたすらこなしていた。

今日の立入調査1件目は、スナックだ。
雑居ビル前に停めた車の中で、松本から渡された申請書類一式に目を通す。
「いい?」
「行きます。」
車のドアを開け、雑居ビルの入り口に立った。

一平の後ろに、松本は黙ってついていく。
雑居ビルの薄暗い階段を上り、2階のフロアに立つと、1つのドアだけが少し開いていて、中の光が漏れていた。

ドアをノックし、少し開く。
「こんにちは。」
「あ、どーも…。」
中のカウンターに一人、ジーパン姿の女性が座っている。
「郷浜保健所の田中と申します。内田さんですね。」
後ろに続いた松本が、同じく松本です、と自己紹介する。

「まずは申請書なんですけど、書いていただいた内容で登録して許可証をお出ししますので、ご自宅の住所とここの住所、屋号、あ、お店の名前とか、間違いがないか、もう一度見ていただけますか?」
女性は一平から受け取った申請書をじっと見つめた後、いいです、と、申請書を一平に返す。
「それでは先日申請いただいた図面を見ながら確認させていただきます。」
「どーぞ。」
内田と呼ばれた女性は興味なさげだ。

一平は図面を見ながら店内の設備を確認していく。

あれ?これ、俺の保健所初日の一発目に、羽山さんが受け付けてた図面だ。

図面を見ながら全体レイアウト、客席との区画、流しや冷蔵庫と温度計、換気扇の位置などをチェックした後、最後にトイレを開け、手洗いを確認する。

松本が小さく頷いたのを確認してから、一平は女性に向かう。
「はい。確認させていただきました。では申請書類の事務手続きに入ります。」
許可証の受け取り方法を打ち合わせた後、書類をカバンに入れた。
「お時間いただき、ありがとうございました。失礼します。」
一平が店を出ようとすると、松本が女性に声をかけた。
「許可証が出るまで少しお待たせしちゃいますね。」
「しょうがないもんねえ。」
「で、お願いなんですけど、くれぐれもこちらの許可がおりるまではお店を開かないで下さいね。無許可営業になっちゃうんで。」
「あ、それ聞いてるわ。この前そちらに行った時に言ってたわね。」
「ご存じでしたらよかったです。保健所が見に来たらもう店開けるんだ、と思っちゃう方、たまにいるもんですから。」
では失礼しますね、と一平を促して店を出た。

公用車に戻り、車を出す。
「ありがとうございました。ど忘れしてました。」
「いやいや。」
「田中君、小さな飲食店ならもう一通り、できるよね。そういうのピックアップしとくから、来週からは一人で頼むよ。」
「飲食店でもフグを出す所はまた別の縛りがあるから、それはその時に誰かについてってもらうよ。」
「製造業とか大きな施設なんかは、確認どころがたくさんあってさ。まずは誰かが行く時に一緒に見て覚えてもらえれば。」
「はい。よろしくお願いします。」
ふう、と息をつき、足元の書類カバンを見つめる。

松本は運転しながら一平の様子をちらりと見る。
「今日は金曜日か。今週、疲れたろ?」
「はい。さすがに。」
「はは…。最初はキツいよなあ。実際。」
「まあ、慣れてもらうしかないんだけどさ。」
松本が苦笑する。

「うちの係の皆さん、保健所長いんですか?」
「ああ。羽山はまだ衛生課しか経験してないけど、俺も安部も、保健所ん中のいろんな課や係、グルグル回ってる。」
「グルグル?」
「そう。俺は生活衛生課の食品が一番長いけど、乳肉、営業衛生もやった。あと環境課で廃棄物、医薬事で薬や医療行政も。あ、そうそう、保健所の検査室にもいたよ。」
「安部は生活衛生課の食品と乳肉、それに医薬事、かな。」
「うわ、聞いただけで目が回りそうです…。」
「ぜーんぶ保健所なんだけどね。」
松本がカラカラと笑う。
「だから、なんの仕事してるんですか?と聞かれたら、保健所に勤めてます、って言うようにしてたよ。」
「すんごいですね。だって行った先々で、やることも法律もイチから全部覚えていかないといけないじゃないですか。」
「まあね…。でもそれって、一般行政職で入ってる人、普通にやってることでしょ?俺らは所詮、保健所のくくりの中だけだけど、彼らはそれこそ役所のぜーんぶが転勤範囲。それを一番長くて3年ぐらいで、どんどん回ってるんだぜ。」
「…。そうでしたね…。」

「お、じゃ、次に着いたぞ。」
松本が道路脇に車を停める。
「これな。」
松本がカバンから書類ケースを取り、クリアファイルに挟んである申請書類を一平に渡す。
申請書類の1枚1枚に目を落とす。次は洋食レストランだ。
「行きます。」
助手席のドアを開け、車外に出た。

その日の夕方。
一平にとって明日は、保健所へ異動後、最初に迎える週末。

あー、もうくったくた…。

自然に足がロビンに向かった。
「こんばんは。」
「いらっしゃいませ。あ、田中さん、お久しぶりです。どうぞ。」
優子がいつもの笑顔で迎えた。
「いやあ、ご無沙汰です。あ…。えっと…。」
いつもの窓際の席には先客がいた。さてと…。
「カウンターでいいですか?」
優子が察し、一平を促す。
「そうだね。じゃあそっちで。」
マスターご無沙汰です、と言い、カウンター席に座った。

マスターが微笑みながら近づいてきた。
「田中さん、今日はスーツなんだ。」
「そうなんですよ。春から保健所に転勤しちゃって今、これが仕事着です。」
「へー、そうなんですね。」
マスターがカウンターに水の入ったグラスをコトリと置いた。
「今日は何にします?」
「あったかいのがいいかな…。なんか心も体もあったまるようなやつ。」
「おやおや、お疲れですね。じゃあポトフに白ワインでどうですか?」
「あ、いいっすね!それでお願いします。帰りは代行にしちゃお!」
「では少しお待ちください。軽いものとワインを先にお出ししておきますね。」
「ありがとうございます。」

あー、安らぐなあ…。

グラスの水を一口飲む。
手持ち無沙汰にぼんやり店内を眺める。
ふと、一平のいつもの席、窓際のボックス席に座っている女の人が目に入った。
ゆるいウェーブヘアに白いハイネックのセーター。コーヒーを片手に雑誌をぱらりとめくっては、伏し目がちにゆっくりと見入っている。

あんまり見たことない人だな。
最近この辺りに引っ越してきたのかな…。

「お待たせしました、ポトフです。これ、塩とコショウね。」
白い器に澄んだスープ。大ぶりに切ったジャガイモやニンジン、玉ねぎとブロッコリーがたっぷり。ぶっとい粗挽きソーセージがそのまま一本、ドボンと入っている。
スプーンでスープを一口啜ると、ソーセージと野菜のエキスが一体となって鼻腔をくすぐった後、胃の壁にじゅっと染み渡っていく。
今週ずっと眼の奥と後頭部で凝り固まっていた何かが、すうっと溶けていく…。

ソーセージをひとかじりし、傍らのグラスワインを口に含んだ。
ソーセージの豊かな肉汁とスパイシーな香りをワインが優しく洗い流し、やがて芳醇なブドウの香りが口一杯に広がっていく。

思わずグラスを置き、ため息をつく。
「いや、マスター、旨いです、ほんと。」
「ありがとうございます。私の看板メニューのひとつなんですよ。」
「あ、そうだったんですね!もっと早く頼んでればよかったなあ…。」
「切らさないようにしてますから、いつでもどうぞ。これ、ファンになってくれてる人、結構いるんですよ。ねえ美咲ちゃん?」

「ええ。」
背後で声がした。
慌てて振り返ると、あのボックス席の女の人がこちらを見てにこにこ笑っている。

目が合ってしまい、思わずどきりとしてしまう。
やっべ、結構タイプかも…。

一平から視線を外さず、美咲ちゃんと呼ばれた女の人が微笑んだ。
「いつもカツサンド買ってくれてる人、ですよね?」

は?

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