長く勤めた自分にしか書けない、そんな記事を。

「いただきまーす!」 第52話

2021/04/25
 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

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第52話

美咲がにっこり笑う。
「えっと、すいません…。」
一平は椅子の向きを変え、美咲をまじまじと見つめる。
「いや、わかんないですよね…。ほら、」
美咲はバッグから白い三角巾とマスク、それに細い縁の丸メガネを取り出し、顔にあてた。
「あ!そっか!売店の!」
「そう。支庁内売店前でパン売ってます。」
メガネを外して再び、美咲がにっこり笑った。

胸がかあっと熱くなる。

ワタワタしそうになるのをぐっとこらえる。
「パ、パン屋さんなんですね。」
「いえいえ。私はただの販売バイトなんです。また買いに来てくださいね。」
じゃあマスター、お勘定お願いします、と美咲が席を立った。
「あ、美咲ちゃん、今度70’Sでユッコさんがライブ演るからって、チケット預かってんだけど、どうかな?」
マスターがカウンターの中からチケットをヒラヒラさせた。
「え、ほんと!行く行く!1枚下さい!」
「あ、マスター!私にも!この前とってもよかったから。」
聞き付けた優子が、トレイを片手にカウンターに駆け寄って来た。
はい、これ、とマスターがチケットを二人に渡す。

お勘定を済ませた後、美咲が、じゃあまた、と店を出ていった。
優子がいらっしゃいませ、と言いながら、美咲と入れ替わりに店に入ってきた客を迎えに行く。

美咲の後ろ姿を見送った一平は、カウンターに向き直り、ワインの残りをぐいっと飲み干してグラスをカウンターにトンと置く。
ふむ、と小さく頷き、マスターに向き直った。
「すいません、マスター。俺も一枚もらっていいっすか?」
「どうぞどうぞ。いっぱい来てくれればユッコさんも喜ぶよ。」
一平の前にチケットをすっと差し出した。

へー、ユッコさんか…。久しぶりだ。

「すみません、ワインもうひとつお願いします。」
マスターからワイングラスを受け取り、手元のチケットを眺めながらワインをちびりと舐めた。

むふふ…。美咲さんも来るぞお!

翌週の月曜日。
生活衛生課はいつものように満員御礼だ。
一平は前週同様、午前中のカウンター業務と電話応対を終え、午後は食品営業施設の新規許可のための立入調査だ。

今日の外回りは安部さんと、だ。

生活衛生課のある2階フロアから階段を一段飛ばしで駆け降り、支庁内売店前にすっ飛んで行く。
白い三角巾とマスク、丸メガネ姿の美咲が、遠くから一平の姿を見つけ、カツサンドを二つ左手にのせたまま、右手を小さく振っている。

「はい、これ。」
「ありがとうございます!」
「あ、それ、こっちのセリフ。」
美咲がクスクス笑う。
「では、行ってきます!」
「いってらっしゃい。」

よおぉっしゃあ!!

カツサンドを両手に持ち、支庁正面自動ドアを飛び出すと、駐車場に停まっている公用車に滑り込んだ。
「よろしくお願いします。」
「おう。」
安部が公用車のギアをドライブに入れる。

公用車はどんどん支庁を離れて行く。
途中の集落のそこここにある桜並木が、もう満開だ。助手席の窓を少し開けると、まだ少し冷気を帯びた春の風が吹き込んでくる。

ああ…。いい天気。春だ…。

桜並木を眺めながらカツサンドの包装をビリっと破り、大きな口でがぶりとかじる。
「なんかいいことあった?」
安部がウィンカーを出しながら横目で一平を見た。
「え!い、いや、別に…。な、何でですか?」
「いや、何となく、ね…。ほら、着いたぞ。」
「あっと、了解です。」

今日の一発目は、古民家を改装した料亭。フグも出す店だ。
二人で車を降り、しばしの間、門前の大きな桜の古木を茫然と見つめる。

ようやく安部が口を開いた。
「フグ、予習してきた?」
「なんとか。」
「よし、行くか。」
「はい。」

足元に敷いてある玉砂利が、踏み締めるたびにサクサクと心地好い。
母屋の前にある古い木戸口をからりと開け、中へと進んだ。

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