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「いただきまーす!」 第54話

2021/05/09
 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

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第54話

サッシ戸に鍵を挿すと、とたんに中に収容されている犬が一頭、人の気配に気付いてクンクン鳴き始めた。鍵を開け、中に入る。

収容室は20畳ぐらいの広さだろうか。床もコンクリート、壁はタイル張り。2畳から4畳程度のステンレス格子の区画が計6つある。
「格子は前面が奥に向かってスライドできて、触らしてもらえない子なんかは、奥の壁に押し付けて保定できるようになってる。」

「はいはい。ちょっと待ってね。」
石野は先に収容されていた灰色の雑種犬に手を振った後、空いている一区画を確認し、格子のドアを開けた。その後、連れてきた老犬を入れ、格子を閉める。
手前にステンレスの容器を置き、ドッグフードと水を入れた。
「で、このホワイトボードにこんな風に書いておけば、まずは一回終わり。頼んでいる人が毎日来てくれてて、餌やりとか掃除をしてくれるの。」
「あとは課に戻って、さっき控えた鑑札情報や犬の特徴を犬の台帳と照合して飼い主と連絡取って、引き取りに来てもらう。ざっとこんな感じ。」

「ここはなんですか?」
一平が収容室の奥に続く部屋を覗き込む。薄暗くて中の様子がよくわからない。
「焼却炉よ。もう使ってない。」
「焼却炉…。」

「かつては県内4ヶ所の管理センターそれぞれで犬の殺処分と焼却をやってたんだって。」
「私が入るだいぶ前から、殺処分と焼却は里崎のセンター1ヶ所で集約してやることになってる。」
「…。そうなんですね…。」
よく見ると大きな設備の一面に、しっかりとした蓋が付いている。
ここから投入して焼却していたのかもな…。

「それこそ野犬が普通にいた時代は日本だって狂犬病の患者が出てたし、野犬の群れに子供が襲われた、なんてことはよくあることだったみたいね。」
「その野犬の群れに、私たちのジイさん、いや、ひいジイさん世代の保健所の獣医さんかな?そんな人たちが立ち向かってたんだ。」
「そして日本中の犬を繋いで飼わせ、狂犬病の予防注射を徹底的に打たせた。だから今の私たちの時代には、日本から狂犬病がなくなった。そして狂犬病になって人が死んじゃう、なんてことは、なくなった。」
「それは間違いのない事実よ。」

石野が焼却炉の蓋にそっと手を触れる。
「そんな獣医さん達がいた時代よりももっと後にできた物なんだろうけど、この焼却炉とか収容室見てると、そういう時代があったんだ、って、思い知らされちゃうのよね…。」

「狂犬病予防法、読んでみた?」
「あ、さらっとですけど…。」
石野がクスリと笑う。

「中に毒餌の置き方とかまで書いてあったでしょ?」
「でしたね…。」

「今だって発症してしまった人はまず、助からない。狂犬病ウイルスはそういう凶悪なウイルスよ。」
「今は日本で狂犬病は発生してない。けれど海を隔てた隣国じゃ、普通に出てる。郷浜には外国の貨物船も接岸する国際港もある。もし、狂犬病ウイルスに感染した動物が貨物に紛れ込んでて、郷浜のどこかの野山に逃げ込んでしまったら…。」
石野が一平を見つめる。

「毒餌使うかどうかなんて話はともかく、そういう想定をしながら今の時代に合わせたシミュレーションを絶えずやっておき、万一の事態に備えておく。」
「これが今の時代の、郷浜にいる保健所の獣医さんの大事な仕事なんだ。」
「そう思わない?」

一平は言葉が出ない。

「んでさ、今の時代の保健所の獣医さんは、もうひとつ新しい仕事を任された。」
石野が収容室に戻り、クンクン鳴いている犬の格子の前に近づき、そっとしゃがみこむ。
格子の外から、おうよしよし、と声をかけた。

「人間の都合で捨てられたり、殺されてしまう動物を、1頭でも減らすこと。」

「こいつがまた大仕事でね…。」
ふう、とため息をつき、立ち上がる。

「あ、話が長くなっちゃったわね。行こか。」
「はい。」

センターを出て捕獲車に乗り込み、雑木林の中を進む。

「ところでさ、日本人が本格的に肉を食べるようになったのって、明治ぐらいからなんだってね。」
「最初の頃は、病気の家畜の肉や、病気で死んだ家畜の肉なんてものまで出回る始末で、それを食べた人が病気になったりして、大変な問題になった。だからと畜場法っていう法律作って保健所の獣医がと畜検査した肉しか流通させちゃいけない、ってルールにした。」

「最初の頃は、保健所の獣医がと畜場に出張してと畜検査やってたんだけど、戦後の高度成長期に日本人がいよいよ肉をたくさん食べるようになって、日本中におっきなと畜場がたくさんできた。だから、保健所の獣医がちょっと出張、という訳にいかなくなって、と畜検査に専念する獣医さんの組織、食肉衛生検査所を作った。」
「だから検査所の獣医さんも、要するに保健所の獣医さん。」
「そして検査所の獣医さんは、人が食べちゃいけない肉が出回らないように、毎日見張ってる。」

「あの子達みたいに人馴れしてて、明らかに人から飼われてたんだけど家から逃げ出しちゃった、みたいな単なる迷い犬は別よ。そうじゃなくて、まったく人を近づけさせない、首輪とかも見当たらず人から飼われた形跡がない、これは野犬だ、と、ひとたび判断すれば、人の命を守るために躊躇なく捕獲するし、必要と判断すれば殺処分もする。そして人に安心して肉を食べてもらうために、毎日何百頭、何千羽を超える家畜や鶏が肉になる瞬間に向き合う。」

「保健所と検査所の獣医さんって、間違いなく人の命や暮らしを守る仕事をしてるんだ。」

「…。そうですね…。」
やっとの思いでそう返すが、後の言葉が続かない。

堪らず石野がプッと吹き出した。
「あ、今までの全部、相澤さんの受け売りだから、ね!」
「相澤さん?あ、県庁の相澤補佐ですか?」
「そうよ。相澤さん。」
「多頭飼育崩壊とか飼い方が悪いブリーダーとか、目の前の継続案件の引き継ぎと対処は大事。だけど、それだけじゃなくて海を持つ郷浜は郷浜の、山に囲まれた里崎は里崎の、みたいに、それぞれの地域の特性を織り込んだ狂犬病発生シュミレーションをきちんとやっとかないとダメだよ、それって地域コミュニケーション担当の仕事でしょ、ってさ。」

「あったま痛いわよねえ、実際。」
林道を抜け、舗装道によっこいしょっと車を乗せて走りだし、石野が言う。

「けどさ、おっきな方向付けができる人が県の中枢にいるのって、現場は心強いもんなのよ。日々の案件に振り回されちゃって、自分が今何やってんのか、たまに見失っちゃうからさ。」
はははっと石野が笑う。

「さてと。来週から当番、できそうかな?」
「まずは、やってみます。」
「お、頼もしいね。よろしく。」
石野はにっこり笑い、アクセルを踏み込んだ。

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