長く勤めた自分にしか書けない、そんな記事を。

「衛生獣医、木崎勇介(食肉衛生検査所編)」

 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

この物語は架空の物語です。

著作権は拓一人にあります。無断転載、引用は禁じます。

本作は「小説家になろう」で同時公開中です。
<あらすじ>
毎日の食卓に欠かせない、食肉。と畜場は食肉が世の中に出回る出発点であり、そこでは生きた家畜が食肉になるまでの様々な過程で自治体職員による衛生検査が行われている。これをと畜検査という。
と畜検査を行う自治体職員は、全員獣医師だ。
木崎勇介、44才。里崎県の獣医師。
平成16年、勇介はと畜検査員として勤務する里崎県郷浜食肉衛生検査所で、職場の仲間達と検査技術の組織的な管理や次世代への引継ぎに取り組むが、団塊世代の大量退職を契機に始まった組織のうねりに、自らも押し流されていく。
不信、再会、別れ。すれ違う多くの獣医師達と共に食肉衛生検査所に勤務する勇介の日々を描く。

<目次>
平成16年(1)
平成16年(2)
平成16年(3)
平成16年(4)
平成19年(1)
平成19年(2)
平成23年(1)
平成23年(2)
平成23年(3)
平成28年(1)
平成28年(2)
平成28年(3)
平成28年(4)

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平成16年(1)

「と畜場」とは食用に供する目的で獣畜をとさつし、又は解体するために設置された施設をいう。(と畜場法第3条第2項)
と畜場においては、都道府県知事の行う検査を経た獣畜以外の獣畜をとさつしてはならない。(同法第14条第1項)
と畜場においては、とさつ後都道府県知事の行う検査を経た獣畜以外の獣畜を解体してはならない。(同法第14条第2項)
この物語は、と畜場に併設された食肉衛生検査所に勤務する公務員獣医師の物語である。
平成16年夏。

ベルトコンベアに一列に並んだ四角いステンレストレイが、勇介に向かってゆっくりと動いている。
トレイにあるのは、豚の内蔵だ。
豚1頭の内臓が、胃袋から直腸までの部分と、舌から肝臓までの部分に分けられ、最初のトレイに胃腸、次のトレイに舌から肝臓が置かれ、2枚で1頭分だ。
各トレイの内蔵の上に、豚の処理番号が書かれた紙片が置かれている。
勇介は処理番号を読み取った。
内蔵を乗せたトレイが眼前まで来ると、勇介は2枚のトレイ上の内蔵を一瞥し、瞬時に大まかな病変を把握した。
右手にナイフを持ったまま最初のトレイに乗せられた胃腸を両手で抱えると、観察しやすいように胃腸の配置を整復しつつ、数珠のように連なる腸管膜リンパ節を大きく露出させる。
リンパ節の連なりをなぞるように刃先を滑らせると、リンパ節が縦にぱっくりと口を開けた。
その乳白色の断面に目をやるや、勇介は胃腸を無造作にシューターに放り投げた。
放り投げる瞬間に既に、勇介の視線は、次のトレイ上の、舌から肝臓までの臓器に移っている。
大きく膨らんだ両肺には、大小さまざまに赤黒く盛り上がった結節状の病変がある。
勇介は両肺を気管の付け根から切り取り、シューターに放り込んだ。
続いて、今まで肺の下に隠れていた心臓の右心耳を左手でつまんでトレイに押し付け、心臓の先端から根本に向けナイフを一気に引き下ろす。さらにもう一閃ナイフを走らせると、眼前に心臓の4つの弁が露出されていた。
最後に肝臓を反転させ、胆のうがついている面を観察する。
所見を取り終えた勇介はもう既に、傍らにあるエプロン洗浄機に正対していた。
フットペダルを踏みこんで温湯を出し、ナイフの血液を洗い流した後、右手に配置された消毒槽にナイフを放り込む。消毒槽には常に熱湯がオーバーフローされており、この熱湯でナイフが消毒される仕組みだ。
シンプルかつ効果的な仕掛けだが、立ち上る湯気と熱気で、なにせ暑い。
熱気をかわしつつ、胸まで覆った白いエプロンとグローブの血を洗浄機で洗い流し、傍らにある検査所見記録用紙の個体番号の欄に「1523」、胸膜肺炎、腸ミコの欄にチェックマークを記入した。

マスクが汗で濡れて、息苦しい。
処理室内はむせかえるほどの熱気と湿気。作業に集中している間はあまり感じないが、集中力が途切れると、とたんに解体処理の騒音が耳につくようになる。
勇介に向かって、直径10㎝ほどの蛇腹ホースが突き出ている。これはスポットクーラーと言い、ここから吹き出る冷気で暑さをしのぐのだ。勇介は、送風口を棒やすりで小突いて向きを調節し、吹き出てくる汗をスポットクーラーで騙しつつ、次々と上流から流れてくるトレイを睨み付けた。

1頭の内臓所見と処置に許される時間は、約20秒。
勇介は無表情に次の内蔵を掴んだ。
勇介の右隣にもう一人。

同じベルトコンベアに並び立って、勇介と同じ作業を担当し、2人で1頭ずつ交互に内臓検査と病変部を取り除く処置を行っている。勇介同様、白衣に白長靴、白ヘルメット、マスク、胸まで覆ったエプロン姿だ。
大戸。今の職場で一緒になり、もう5年になる。

「大戸ちゃん、今日もナイフ切れてるねえ。」
豚の内臓が途切れたスキに勇介が声を掛けた。
「今朝、ちょいと研いどきましたから。研磨機があるから随分楽になりました。」
マスクとヘルメットごしに見える黒眼鏡の中から、大戸がにこりと笑って見せた。
「俺、研磨機苦手で、今でも平砥石で手研ぎだなあ。」
「機械苦手なんて年じゃないでしょ。」
すかさず大戸が突っ込みを入れてくる。
(もう四十半ばなんすけどねえ・・・。)
勇介はマスクの下で苦笑いした。

勇介と大戸は1mほど底上げされた約20畳の真四角のフロアの一辺に立っているが、彼らの背後の1辺にもう1本のコンベアがある。
トレイには豚の頭が1頭づつ乗せられ、内臓のコンベアと同じ速度で流れていた。
勇介と大戸に背中合わせに立って頭のコンベアに向き合い、頭の検査を担当している巨体の男がいる。大戸と同い年の石川だ。
石川は頭の外観を観察した後、下顎の4つのリンパ節をナイフで切開し、病変があった頭をシューターに放り込んでいる。こちらは全部の頭を一人で担当している。

その石川が、1頭ごとにナイフに棒やすりをガシガシあてている。
(またナイフ研がずにやってやがんな、こいつ。)
目の前の内蔵をさばきながら、勇介は思った。
ナイフは何頭かに1回は棒やすりをあててやらないと、刃にこびりついた脂が邪魔をしたり、刃の直線性が不整になるために、どんどん切れ味が悪くなる。
しかしこの棒やすりの使い方が未熟だとむしろ刃をつぶしてしまう結果となり、まったく切れない「なまくらナイフ」となってしまう。
新米の頃は、何度も検査中に棒やすりを雑に扱って刃をつぶしてしまい、毎日現場検査終了後に、大汗をかきながらナイフを研いでいたものだ。
(棒やすりは表面・裏面の刃の角度に沿って、一定の力・スピードでていねいにゆっくりでいい。あんなにあててるってことは、よっぽど切れねえな。)

勇介は四十を超えてようやく、自分なりの棒やすりのあて方を体得した感がある。最近では他人が棒やすりをあてている音を聞いただけで、そのナイフの切れ味がわかるようになったかもしれない。
極端に言えば、棒やすりをあてている時に「シャリ、シャリ」という音は聞こえるようでは、ノコギリ刃で話にならない。切れるナイフは「フィン、フィン」と聞こえるか、無音だ。
「おい石川、たまにはナイフ研げよ。」
「あれ、ばれちゃいましたあ?」
(よく言うよ、まったく。)
勇介は、心の中でそう呟いた。

とたんに勇介の傍らにあるインターホンが鳴った。
「枝肉検査の加藤です。採材をお願いします。」
30mほど離れた場所で、枝肉検査を担当している加藤からだ。

豚は解体過程で足先と尾を切り取られた後、1頭ごとに逆さ吊りでフックにかけられ、頭切断、内臓摘出を経た後、皮を剥がされ、背骨に沿って縦割りにされる。これを枝肉といい、枝肉の形で食肉販売業者がと畜場から出荷していくのだ。
枝肉の形になった直後に行われる枝肉検査では、骨折や化膿巣、変形や変性などがないか、必要に応じてナイフを入れながら目視で観察し、病変部分の切除や枝肉全部の廃棄の判断と処置が行われる。この検査も1頭の判断と処置に許される時間は20秒程度しかないが、大きく割除する場合や精密検査のためのサンプル採取が必要なものは、一旦、別のラインに引き込んでおき、解体ラインの小休憩中に、それらの処置を行う。

「あと5分で小休止に入るから、石川に行ってもらう。」
周囲の騒音に負けないように、大声でインターホンに怒鳴り付けた。
「了解です。保留しときます。」
加藤の返事を聞きつつ後ろを振り向くと、もう石川が後ろ手でOKサインを出している。
(いつもながら小回りの効く奴だ。)

解体ラインの上流から、その時間帯の最後の個体の内蔵と頭が送られてきた。解体作業が小休止に入ったようだ。
石川は最後の個体の処置を終えてナイフとエプロン、グローブの洗浄を終えるやいなや、勇介とアイコンタクトし、検査フロアから降りて枝肉検査台へと足早に、しかし駆け出さずに移動していった。
解体施設内は濡れている部分や豚の油が染み付いている部分があって大変滑りやすいため、施設内ではどんなに急いでいても決して走ってはならない。解体作業者もと畜検査員も移動中に自分のナイフをケースに入れて持ち運んでいるが、このナイフは触れただけでスパッと切れるぐらいの代物だ。いくらケースに入れていると言っても、移動中に施設内を走るのはとても危険で、こんなことも知らない奴は、ただのド素人だ。
石川の一連の動作を頼もしく思いながら、勇介はその後ろ姿を見送った。

内蔵検査も小休止に入り、勇介と大戸は解体処理棟の検査員控室で後半の検査担当者と交代し、2人で控室を出た。
「じゃ、細菌検査室に行ってますね。」
大戸が勇介を追い抜いて足早に階段を降りていった。

と畜検査では、必要に応じ、合否の判断を保留して出荷せずに一時留め置き、食肉衛生検査所内で試験室内検査を行い、検査結果を待ってから出荷の可否を最終判断している。
大戸は数年来、郷浜食検で細菌学的検査を担当しており、今では所内の主担当者に成長していた。ここ1~2年は、後輩への指導も担当している。
大戸はと畜場正面の自動ドアから外へ出た。と畜場は白を基調とした箱形の巨大な建物で、においや鳴き声はほとんどない。外観では、中で牛や豚が解体されているなんて、全く感じられないほどだ。
20mほど舗装路を歩き、隣接している食肉衛生検査所の通用口に着く。こちらは2階建ての鉄筋コンクリート造だ。
食肉衛生検査所の脱衣所で手洗いと洗面をした後、と畜場用白衣を洗濯機に放り込んで試験室内検査用白衣に着替え、所内の細菌検査室に入った。検査室では、2年目の小杉が、培養した菌の染色標本を顕微鏡で観察している最中だった。

「あ、お疲れ様です。大戸さん、ちょっと見ていただけますか?」
小杉が顕微鏡から目を離し、大戸に振り返りながら言った。
「ほいほい、どうだい?」
「これって、豚丹毒菌でいいですよね。」
大戸は小杉の傍らから顕微鏡を覗き込んですぐさま、
「まあ間違いないね。PCRは?」

PCRとは、その細菌やウイルスの遺伝子の特定の配列を増幅して検出する技術の一つである。通常、細菌の菌種を判定するためには様々な性状検査を行わなければならず、何日もかかってしまうが、PCRを行うと特定の菌種にしかない遺伝子配列があるかどうかを、わずか半日程度で判断できる。このため、枝肉の商品価値が下がらないようにできるだけ早いタイミングで枝肉の合否を判断したい食肉衛生検査所にとっては、補助診断として大変ありがたい技術で、豚丹毒だけでなく、様々な細菌やウイルスの検出に幅広く用いられている。

「PCRは、まだやり方教わってなくて・・・。」
「ありゃ、そうだっけ?んじゃ、こっちでやっとくよ。あとで教えようか?」
「お願いします。俺もできるようになりたいんで。」
「じゃ、今日の現場終わったら、またここ来てくれるかな。」
「ありがとうございます。」
大戸が冷蔵ショーケース内の検査試薬の在庫チェックを始めた時、細菌検査室の扉が開き、石川と加藤が入ってきた。
石川は検体を入れたステンレストレイを持っている。

「加藤ちゃん、これ培養しなくていいんじゃない?」
石川はトレイの上に乗った赤黒いリンパ節と注射器に入っている膝関節液を指差しながら、加藤に言った。
「私もちょっと悩んだんだけど、やっとこうと思ったの。小杉君はどう思う?」
小杉は加藤の目線を一瞬受けた後、すぐ眼をトレイ上に移し、
「僕はやっといたほうがいいと思います。」
伏し目がちにそう答えた。

石川はそんな二人を黒縁の丸メガネの奥で見比べながら、少しにやりと笑い、
「ふーん、じゃ、まかしたかんね!」
と、小杉にトレイを押し付け、細菌検査室から出て行った。

「ごめんね、小杉君、頼んでいいかしら。」
加藤は細身でショートカット、目鼻立ちも整ったなかなかの美形。頭の回転もよい上に気立てもよく、所内のおじさんたちにも人気の美人だ。
加藤の大きな瞳で見つめられ、いよいよ小杉は真っ赤な顔でしどろもどろになりながら、
「あ、いいです、いいです、僕やります。」
とトレイを検査台に置き、早速準備を始めた。
「少し隣で見てていいかな?私まだやったことなくて・・・。」
「え?ま、まあ、いいっすけど・・・。」
いよいよ小杉の顔が耳まで真っ赤になってきた。
「あれ、加藤は検体の仕込みもやってなかったっけ?」
大戸が加藤に尋ねた。
「そーなんですよ。なんやかんやで、結局まだ引継ぎできてません。」
「そっか。なら、小杉頼むよ。」
「あ、はい。けど、僕のやり方でちゃんとできてるか、ちょっと不安で・・。」
「んなこと言うなよ。お前はできてるよ。大丈夫だって。」
大戸は小杉の肩をポンと軽くたたいた。
「なんか、マニュアルみたいなのあるといいっすよね。それ見て一回教われば、誰でもできちゃうみたいな。」
「そうそう、大まかな検査フローだけじゃなくて、キモになる手技の細かいニュアンスや、培地や試薬の具体的な調製方法や保管方法も整理されてると、とっても助かるわ。」
加藤が口を挟んできた。
(おいおい、マジかよ。)
うんざりしながら大戸は心の中で呟いた。

しかしふと思い直し、そして加藤を見つめ、腕組みをしながら言う。
「実は俺も、各自が先輩から見聞きした内容を自分の手書きノートに書いて引き継ぐっていう、今までのようなやり方じゃなくて、きちんと整理されたマニュアルをみんなで引き継いでいくやり方にすればいいなとは思っていた。でも、マニュアル作るのって、かなり手間だぜ。」
大戸がさらに続ける。
「まあ、いい機会なんで、ちょっと勇介さんにちょっと相談してみるか。」
「わあ、やったあ!お願いします!」
小杉と加藤がバンザイしながら口を揃えて叫んだ。

大戸は苦笑いしながら、
「そん時は、お前らも手伝えよな!」
しっかり者の大戸は、調子のいい2人の後輩に釘を刺すのを忘れない。

勇介は理化学検査室で残留抗菌性物質モニタリング検査で使用する検査用機器の準備をしていた。
この検査を担当してから10年になる。この検査の主担当者だ。

ここで食肉衛生検査所で行われている様々な検査と検査精度の管理体制の違いについて説明しておきたい。
と畜場法に定めている疾病に罹った、あるいは罹ったおそれのある家畜の一部またはその全部を食肉とならないように排除する目的で実施するのが、と畜検査だ。都道府県や保健所を設置する市が、自分の自治体に所属する獣医師の中から検査員を任命し、行わせている。

と畜検査では、と畜場に搬入されるすべての家畜について、まず一頭ごとに家畜の生前の臨床症状を観察して、と畜場法で定めている疾病に罹った、あるいはその恐れのある家畜について、と殺の禁止や解体の禁止を指示している。この検査を生体検査という。
生体検査で問題なしとされた家畜はと畜解体に供されるのだが、解体中の複数の工程で目視的検査が行われ、そこで病変を見つけたときは、その家畜の食肉を一部廃棄あるいは全部廃棄すべきかをと畜検査員が判断し、必要な措置を行っている。
これらはと畜場内で行われるため、職員からは「現場検査」などと称されることも多い。

現場検査のみでは判断できない症例は、措置を一時保留し、サンプルを採取して試験室内で検査を行い、その結果を踏まえて判断している。
試験室内で行われる検査は、病変部位の組織標本を作成して診断する組織病理学的検査、感染を疑う家畜から採取したサンプルを培養し菌検出を試みる細菌学的検査、尿毒症や高度な黄疸の症状を呈する家畜の血清中の尿素体窒素や総ビリルビンなどの代謝物を測定する理化学的検査、そしてBSEの病原体である異常プリオン検出を目的とするエライザ検査が、主なものだ。

ここまでの検査は、疾病に罹った家畜の摘発と排除を目的とする、と畜場法に基づいて行われている。

食肉衛生検査所で行われる検査には、と畜場法ではなく、食品衛生法に基づいて行われている検査もある。
食肉に残留する動物用医薬品の検査だ。
里崎県ではと畜場に搬入される家畜の食肉を抜き打ちで採取し、抗菌性物質について検査が行われている。これは通称、モニタリング検査と称される。
検査を行う機関として欠かせないのが、検査手法の精度管理だが、食品衛生法とと畜場法では、検査実施に際して検査機関に求められる要件が異なる。

食品衛生法に基づく検査業務を行う場合は、検査の手法や精度管理のやり方、組織体制について詳細に文書化して管理する中で検査を実施し、その過程をすべて記録して保管しておく必要がある。
と畜場法に基づいて行う検査のうち、BSEエライザ検査に関しては、食品衛生法に基づく検査に準じて管理するよう国通知で指示されているが、それ以外の検査には、検査体制の整備をどう行うか具体的な指示がない。
このため、と畜場法に基づいて行う細菌学的検査や病理学的検査、理化学的検査については、全国の食肉衛生検査所が個々に判断し、自治体や各公所の実情に合わせてマニュアルの文書化や組織的な精度管理に取り組んでいる。

里崎県の食肉衛生検査所では、前任者や同僚から見聞きした内容を各自メモしてそれを頼りに日々の検査を行い、人事異動等があった場合の後任者への引き継ぎに際しては、それらのメモで技術的引継ぎを行っていた。
要はただの「口伝え」である。
口伝えでは、メモすら残してくれない前任者に行き当たると、後任者は全く予備知識もないまま検査業務に向き合わされることとなり、イチから情報を集め直して検査手法を再構築していくという非効率極まりない作業を強いられることになる。

しかし幸いにも、里崎県の食肉衛生検査所の場合、同じエリアに在住する獣医師が内部異動を繰り返しながら在住エリアの食肉衛生検査所にそのまま勤務し続けることが多かった。
彼らのうちの何人かがそれぞれ得意分野を持って各試験室内検査の伝道者となり、口伝えで後任者へ引き継ぎながら試験室内の検査技術レベルを維持できていた。

大戸が理化学検査室に入ると、勇介が検出用機器に向かい、機器に細いステンレスチューブを接続している最中だった。
「あ、ちょっといいですか?」
「うん、何?」
「実は、前から思ってたんですけど、うちの所の細菌検査マニュアルみたいなものって作れないですかね?」
「ん?」
「今って、先輩から実地で教えてもらったことをその場で各自ノートに書いて引き継いでますよね。これだと聞き漏らしや各自の思い込みとかが入ってきて、少しずつズレちゃうようなんですよ。それに、自分勝手にアレンジしていることもあるようだし、この際ちゃんとマニュアル化してみんなで共有したいなと。その方が人事異動の時に引継ぎもしやすいかなとも思うんですよ。」

「同感だな。ただな、」
勇介は大戸に向かい合って、続ける。
「話を大きくしてしまって申し訳ないが、実は俺は、単に今のやり方を文書化するだけじゃだめだと思ってる。担当者が自分勝手に全く別の手法で検査手法や手順を変更しないように、また、検査を統括する立場の上司には内容に責任をとらせるように、必ず所内決済を経ないと改変できないように仕掛けないといけない。」
「それって、モニタリング検査でやってる『検査実施標準作業書』を細菌検査室にも導入する、ってことですか?」
「そうだ。今は細菌検査の実務すべてを担当に任せきりだろ。検査手法にはきちんと根拠があって、出るものは出るし、出ないものは出ないといった、きちんと検査が成立しているのだという論拠をしっかり掴んでおかないといけない。こういった検査の信頼性に関わるレベルで何か問題が発覚したら、単に担当が勝手に判断してやってました、と上司が謝って済む問題のレベルではなくなってしまう。行政機関である検査所の信用が大きく失われてしまうんだ。組織で作成して管理するしくみにして、試験検査を統括する立場にある上司には、検査手法の設定根拠の明確化と精度管理は自らの責任範囲なのだ、という自覚をもってもらわないとな。その上の所長にも、な。」

勇介はさらに続ける。
「大体、うちで今採用している細菌検査の手法や手順って、何に基づいて決めていたんだ?実は俺もよくわからなかったんだ。誰かが勝手に決めてそれがまかり通っていただけなのか?」
「そうですねえ・・・。モニタリング検査だけでなく、と畜場法に基づいて行う細菌検査の分野でも、検査手法の設定根拠をきちんと明らかにし、それを組織の責任者が承認している旨を文書化して管理しておかないと。説明責任を問われる今の時代、たとえ国がと畜場法の中で求めていなくても、当然やっておくべきことですよね。食肉は間違いなく生産者の財産なんだし、その処分を決めている行政機関の検査室なんですからね。でも細菌検査の検査実施標準作業書の設定なんて大仕掛けは、所内調整が必要ですよ。」
「お前らが一緒にやってくれるなら、俺が検査課長に掛け合ってみるよ。」
「あいつらは手伝ってくれます。課長への調整をお願いします。」
「分かった。じゃ、当たってみる。西野課長なら理解してもらえそうだしな。」
「ありがとうございます。うまくいくといいですね。」
そう言って、大戸は検査室を出て行った。

(西野さんなら快諾してくれるはずだ。)
勇介は分析機器の電源を入れて動作させ、ステンレスチューブの取り付けが上手くいっていることを確認しながら、心の中でそう呟いた。

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