長く勤めた自分にしか書けない、そんな記事を。

「衛生獣医、木崎勇介」(食肉衛生検査所編) 平成19年(1)

2020/05/29
 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

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平成19年(1)

二年後の平成19年3月。

「検査所だそうです。」
出先から郷浜保健所生活衛生課に戻った勇介に向かって、同じ係の吉本が囁いた。
今日は人事異動の内示の日。
そうか、検査所か。

ああ、この喧騒の日々から解放される、と少しほっとしたのは確かだ。
あっという間の2年だった。悪戦苦闘の毎日だった。いや、今でも悪戦苦闘の日々には間違いない。
ただ、少しずつ何かを掴み始めている感覚は、ある。
覚えなければいけないことは、依然として膨大だが、わからないことがあった時、何を読み解き、誰と議論していくべきか、その手段と思考回路を少し手に入れた。

信頼できる経験豊富な上司がいる。前向きな議論ができる切れ者の同僚もいる。
行く先々の関係者からも、やっと顔を覚えてもらえた。
そういう意味では、俺は、ついていた。
あともう1、2年、保健所の仕事をやらせてもらえれば、ようやく形になりそうなのに。
どうせズブの素人にやらせたんだから、一人前になるまで置いとけばいいものを。
吉本から他者の異動先を聞きながら、勇介は心の中でそう呟いた。

平成19年4月。
勇介は検査課の主査として郷浜食肉衛生検査所に赴任することになった。
検査課長を補佐する立場である。
事務室で他の赴任者と共に全体挨拶を済ませた後、勇介は大戸に近づき、
「また一緒になったな。よろしく頼むよ。」
と声を掛けた。
大戸は伏し目がちに、
「あ、はい。よろしくお願いします。」
と答えただけで、事務室を出て行った。

なんだあいつ、と思いながら、今度は小杉を見つけて近づき、またよろしくな、と笑いかけたが、
小杉は作り笑いを浮かべながら、
「こちらこそよろしくお願いします。」
と、ぺこりと頭を下げ、書庫の方へ足早に去って行った。

「おい、木崎君、挨拶回り行くぞ。」
スーツ姿の上尾次長が、大声で勇介を呼びながら事務室を出ていく。
「あ、はい。すみません。今行きます。」
勇介は渡された新しい名刺をポケットに突っ込みながら、慌ただしく事務所を出た。
(こいつら何か変だ。一体どうした?)

翌日、細菌検査室で検査記録を整理していた大戸に、勇介が声を掛ける。
「あのさ、牛白血病のPCR検査始めたと聞いたんだ。PCR検査のレシピと、試薬の置き場所教えてくれないか。」
「俺達がやりますから、大丈夫ですよ。」
大戸は勇介をちらりと見やった後に視線を書類に戻し、整理を続けながら言った。
「お前らがいない時にやってくれと言われたらまずいかなと思ってさ。俺は未経験なんで、一回やっとかないと。」

大戸は整理の手を休め、しばらく考えた後、
「わかりました。じゃ、今日の午後でお願いします。」
「ありがとう。すまんな。」
午後、大戸は勇介に矢継ぎ早に牛白血病の検査法の説明を始めた。
「病変部の前処理法は、これです。キットはここにあります。PCR反応液の調整方法はこれ。サーマルサイクラーの条件はプログラム2です。電気泳動はやり方一緒なんで説明はいいですよね?前に出た白血病の病変部、凍結保存してありますから、これでテストできます。」
「ありがとう。一回やって見せてくれないか?」
「書いてある通りやるだけですから。じゃ、よろしくお願いします。」
大戸はそっけなく検査室を後にした。

(やっぱり何かある。あとで話を聞かんとな。しかしまずこの検査をものにしておかないと、明日から俺が困る。)
勇介はいそいそと手順と試薬を確認し、陽性コントロールの病変部からのプロウイルスDNA精製作業を始めた。
牛白血病のPCR検査は、病変部からプロウイルスDNAを精製し、狙う遺伝子配列を増幅して検出する。

プロウイルスDNAの精製作業は経験がないが、市販キットのマニュアルを頼りに、なんとか精製手順を終わらせた。
あとはそれを増幅して電気泳動し、写真を撮るだけだが、たった2年検査を離れていただけなのに、手元がおぼつかない。
(こんなに鈍っちまったか。やってないと体から抜けちまう。なんだかど素人に戻っちまったようだな。)
内心苦笑いしながらも何とか電気泳動を終わらせ、暗室で増幅物を発光させる。
増幅物が期待通りの位置で強く発光している。
ほっと胸を撫で下ろし、写真を撮影して暗室を出た。

写真を検査テーブルに置き、片付けを始めていると、大戸が近づいてきて写真を手に取った。
大戸はしばし写真を見つめている。
やがて勇介に向き直り、神妙な顔付きで、
「今日ちょっと時間もらえませんか?」
と誘ってきた。
「おう、喜んで。」
勇介は笑顔で返したが、大戸は固い表情を崩していない。
どうも楽しい話ではないらしい。

その夜、居酒屋の暖簾をくぐり、引戸を開けると、奥のテーブルに談笑している4人の姿を見つけた。
大戸は勇介と目が合うと、
「こっち、こっちです。」
と手を挙げる。
大戸、小杉、瀬野、岩崎の4人。皆、郷浜食検の若手ばかりだ。
瀬野は郷浜食検と郷浜保健所を行き来している。
女性獣医師の岩崎は勇介とすれ違いに郷浜保健所から郷浜食検へ異動し、今年3年目だ。

「じゃ、みんな揃ったんで、まずは乾杯しますか。」
大戸が切り出し、皆がジョッキを手に取る。
「乾杯!」
皆がそれぞれに談笑を始め、和やかに宴が始まった。
しかし何かぎこちない。皆が何かを窺っているかのようだ。

その空気に耐え切れないと言わんばかりに、小杉が切り出した。
「作業書は、だめです。」
いきなり発せられた言葉に、酒宴の場が固まる。
「言ってやれ、言ってやれ。」
大戸がすかさず合いの手を入れた。
小杉が言葉に詰まっている姿を見て、もどかしそうに大戸が続ける。

「2年前に来た渡会課長に全部否定されました。」
渡会は、平成17年度、勇介とすれ違いに里崎食検から郷浜食検へ異動し、平成19年度に再び勇介とすれ違いに里崎食検へ戻っている。
若い頃から細菌検査を長く担当し、自分の経歴に高いプライドを持っていた。また、里崎食検では持論を曲げない押しの強い人物としても有名だった。郷浜食検へは検査課長ではなく、と畜場の衛生指導を総括する指導課の課長として赴任している。
「渡会課長は、郷浜で設定した検査手法を改悪、とまで言っています。マニュアルがあると勉強しなくなるからだめだ、作業書なんて認めない、とも言ってました。回りの上層部も皆、渡会さんと同じ意見で、以後細菌検査の手法はすべて里崎食検の手法でやれ、と指示されています。」
「作業書という仕掛けそのものを認めないそうです。」
大戸は勇介の眼を見据えながら、淡々と続ける。

「なので、作業書は検査室の見えないところに片づけました。更新どころか使ってもいません。」
「渡会課長が自ら細菌検査室へ乗り込んでことごとく介入し、検査手法は全て里崎流に置き換わりました。」
「作業書という仕掛けは、だめです。」
小杉が言うと、瀬野、岩崎も同じ言葉を勇介にぶつけてきた。

長い沈黙の後、勇介が口を開く。
「全国の検査所が議論し、一定の共通見解が得られている検査手法がある場合は、原則、その手法を採用すべきだ。県をまたいで複数のと畜場へ出荷する業者と渡り合っていくためには、全国の検査手法にある程度すり寄った手法で検査しないと、他県さんはみんなこうなのに、そんなやり方してるの里崎県さんだけですよ、と、出荷業者から言われてしまう。」
「検査実施標準作業書は、検査手法と設定根拠を詳細に記述しているだけでなく、検査を総括する立場の上司が責任を持って検査手法を設定し、それを明文化して検査担当者に指示を出す。担当者はそれを確実に実行して記録を残す。そういった上司と担当者の責任の所在を明らかにするものなんだ。組織に当然備えておくべきものだ。検査のやり方を書き綴った単なるマニュアルじゃないんだ。」

「職権のない上司が横槍を入れ、所長も他の上司も俺はあんまり詳しくないからと、だんまりを決め込む。上層部が機能マヒを起こしていて、お話になりません。」
「それに考え方が正しいとしても、まず里崎との調整をしてから作るべきだったんじゃないんですか。そのおかげで俺らはえらい目にあったんですよ。」
大戸が勇介を鋭くにらみつけて言い放った。

他の3人は黙って聞いている。

大戸の言うことは正しい。しかしこれまでの里崎と郷浜の長い歴史の中で、里崎との調整そのものが現実的でないことを、当時の郷浜上層部と勇介は身に染みて感じていた。だからこそ、現状に風穴を開けるべく作成を決断した。
里崎のベテラン組と事を構える時は、作成を主導した自分達が矢面に立つ腹積もりだった。しかし、作業書作成を主導した上層部と勇介が根こそぎ異動してしまったため、結果的に郷浜検査課の若手を矢面に立たせるはめになったのだ。
悪いことに、そのタイミングで里崎でも最もアクの強い渡会課長が異動してきた。強引な人柄はかねてから耳にしてはいたが、職権を超えて介入してくるとは思わなかった。
また、作業書の決裁に居合わせたはずの郷浜の中堅以上の職員が我関せずとばかり渡会課長の所業を黙認し、検査課の若手をかばうこともなかったことにも、大きな衝撃を受けた。

こんなこと、こいつらにはとても言えない。

大戸の視線から眼をそらすことなく、勇介は、続ける。
「作業書は、若い君らのために作った。いきさつや経緯はともかく、若手の君らがだめだ、と言うなら、俺からは何も言うことはない。」
勇介はジョッキをあおり、
「よし、もうこの話は終わりだ。飲もうぜ。」
すいません、生ビールもうひとつ、と店員に声を掛け、目の前の焼き鳥にかぶりついた。

翌日、事務室で上尾次長が勇介を呼んだ。上尾も里崎単身赴任組で、検査課長も兼務している。
「木崎君、君にはモニタリング検査を担当してもらうよ。細菌検査は大戸君にやってもらう。彼も十分力をつけたから、そっちは大戸君に任せなさい。」

大戸達とやり取りした昨夜の感覚が、まだ生々しい。
「分かりました。」
勇介はそう言うと、上尾に一礼して事務室を出た。

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