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「衛生獣医、木崎勇介」(食肉衛生検査所編) 平成28年(2)

2020/05/29
 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

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平成28年(2)

1週間も経つと、職場の様子が変わってきた。

今まで細菌検査室で噂話しかしていなかった山田と石野が、今度は検査用資材の在庫をあれこれ調べたり、細菌検査担当の早瀬をつかまえては調査プランについて議論したりしている。
早瀬が勇介達上司の意図をすべて把握しているかどうかを知る術はないが、山田たちに協力的に接していることから、そう悪く受け止めている訳ではなさそうだ。

石野は出産前、細菌検査に前向きに取り組んでいたので、昔の記憶に火が付いたのか、あるいは開き直ってくれたのか、着々と作業を進めてくれている。
山田は万事消極的な性格なので自ら動くことはないが、石野に引っ張られながら共に仕事をしている。

山浦所長が勇介にそっと近づき、呟いた。
「これだけ職場の雰囲気を変えられたのなら、それだけでも彼女らの十分な成果だ。」
「たとえ思惑通りのデータが取れなかったとしても、ほめてやんないといけないな。」
山浦はにこりと笑い、所長室へ入っていった。

山田は自分の机のパソコンで石野から頼まれた試薬の発注作業を始めた。
「浅型シャーレ1箱、200マイクロリットルチップ1,000本、…」
小さなため息をつき、傍らにある回覧物に目を落とす。
「パワハラ・セクハラ相談窓口 県庁総務部人事課 メールアドレス…」

辺りを見回した。周囲には誰もいない。
自分のメールボックスを開いて通知文書を探す。
すぐ見つけて相談様式のファイルを開いた。
あふれ出てくる思いを、静かに打ち込み始める。
「職場の上司から過重な仕事を強要されています。…」

あ、もう帰らなきゃ。
下書きをデスクトップに一時保存しておく。
急いで机の上を片付け、お先に失礼します、と言って事務室を出た。

山田の自宅は職場から車で20分のアパートだ。

「ただいま。おなかすいた?今から作るから。」
「お帰り!あ、これ先生から。」
小学2年生になる息子から学校のお知らせを受け取る。
PTAの役員会議の案内だ。
大きくため息をつき、キッチンのテーブル脇にあるホワイトボードに止めておいた。

手早く食事を作り、息子と共に食べていると、スーツ姿の夫が帰宅してきた。
「ただいま。お、今日はカツ丼か。」
「お帰りなさい。先に食べてました。」
「おう。風呂入ってくる。」

夫は会社員。営業職だ。
風呂から上がった夫は短い髪をタオルでガシガシ拭きながら食卓に座るやいなや、缶ビールを一気にあおる。
「かー、毎日こいつのために働いてんだよな。」
息子が真似をして自分のコップの水をあおり、かー、と言う。
山田はくすくす笑いながら2本目のビールを差し出した。
「パパは毎日楽しそうだね。」
「ん?ママは楽しくないのか?」
「なんか最近めんどくさい仕事押し付けられちゃって。私、仕事ってどうでもいい方だから、やらなくて済むなら、なるべくやりたくないのよね。」
「ふーん、そうか。」
夫はカツ丼をガツガツとかっ込んでいる。
「ほんと毎日うまそうに食べるわね。作りがいがあるわ。」
「いや、実際うまいから。な?」
「うん!」
隣の息子が元気に返事を返した。
「スーパーで買ってきたトンカツを卵でとじただけなんだけどね。」
山田が申し訳なさそうに言う。

「ねえ、ママ。」
「ん?」
「一日一個、何でもいいから楽しんでみるといいんだって。」
「だいぶ前なんだけど、外回りしてる時、ラジオで聞いたんだ。俺さ、それやってみてんだよ。」
「これが結構いい感じ。」
「毎日やる色んな事のうちどれかひとつ選んで、よし今日はこれにしてみよ、ってね。」
「例えば今日だったらさ、よーし、このトンカツをきれいに卵でとじてやろう、とかね。」
「でね、上手くいったら自分で自分をほめてやる。」
「俺、すげえ!ってな。」
「何それ。」
「だまされたと思ってやってみなって。なんか楽しくなるから。」
「そんなもんですかねえ。」
山田は自分の食器を持ってキッチンへ向かった。

翌日、山田と石野は細菌検査室で早瀬からPCRの手技を習っていた。

「じゃ、二人が作ってくれたサンプルの電気泳動終わったから、見てみよう。」
三人で暗室に入り、結果を確認する。
暗闇の中で増幅産物が発光している。
山田のサンプルがひときわ太く強い光を放っている。
「へー、山田さん、ばっちりじゃん。初めてなのにうまいね。」
「え?」
山田は自分が作ったサンプルが放つ強い光をじっと見つめる。
(きれい。)
だいぶ前に感じていたはずの感触を、ふと思い出したような気がする。

なんだっけ。

学生時代になかなかうまくいかない実験が初めて成功した時の達成感?
動物病院に勤務したばかりの頃、飼い主の前で初めて猫の血管注射が上手くできた時の安堵感?
それにしても、と思う。
(これ、楽しんでみればいいのかな。)
(あ、そうか。「あたし、すげえ!」だったっけ?)
(うちのパパも面白い事知ってるもんだわ。)
山田は窮屈な暗室の中で一人ニヤついてしまっている自分に気付いて、ちょっと慌てた。

夕方、いつものようにいそいそと自宅に戻り、夕食の支度に取り掛かる。
「ただいま!」
息子が元気に飛び込んできた。
「お帰り、今日は遅かったのね。」
「うん。タケシ君ちで遊んできた。今日は何?」
「今日はシチューだぞお!」
「やったあ!僕、ママのシチューが一番すき!」
「あら、うれしい事言ってくれるわねえ。もうできたからお皿出してくれる?」
「うん、わかった!」
息子が食器棚を乱暴に開け、ガチャガチャいわせながら自分の皿とスプーンを取り出し、山田に差し出した。
皿を受け取り、ご飯とシチューをよそい、はいどうぞ、と言って息子に手渡す。
「うひょー、大盛り!」
急いでテーブルに置いて座り、いっただっきまーす、と言って、ガツガツと食べ始めた。

山田はキッチンから息子の食いっぷりを眺めている。
「あー、この瞬間が、ママは一番幸せだわ。」
「ママ、おいしいよ!」
「えっへん!どうだ、すごいだろ!」
「うん、すごい!」
「あ、そう言えばさ、今日マコト君から、『君のママ、獣医さんなんだって?すごいね!』って言われちゃった。」
「この前、ママ、動物の図鑑で色々教えてくれたでしょ?だからさ、僕、『そうだよ。動物のこといっぱい知ってるんだよ。』って言ってあげたんだ。」
「いや、まあ、それほどでもないんだけど。」
「そんなことないよ、ママ。『キリンもカバも人間も首の骨の数ってみんなおんなじなんだよ』って言ったら、先生だってびっくりしてたもん!」
「え、先生にそんなことまで言っちゃったの?困ったなあ。」
「今度もっと教えてよ。僕、動物のこと、もっと知りたい!」
「ええ、お安い御用よ。」
「やったあ!」

そんなに喜ばれてもなあ、と苦笑いしていると、夫が帰ってきた。
「ふー、ただいま。」
「あ、お帰り!ねえパパ、聞いて!」
息子が口をモゴモゴ言わせながら、さっきの話をまた夫に話した。

夫はうれしそうに一通り話を聞いた後、息子の頭に手をポン、と乗せ、言った。
「そうだぞお。お前のママはすんごいんだぞお!」
「よし、すんごいママ、パパにおいしいご飯とキンキンに冷えたビールをくれないか?」
「はい、喜んで。」
山田はシチューを盛りつけた皿と冷えたビールを持ってきた。
「よし、まず食うか。」
「僕、おかわり!」
「そうこなくっちゃ!」
と言い、夫がビールを一気にあおる。
「あー、うめえ。」
「いつもありがとな。」
「なによ、いきなり。」
「家の事、みんなやってもらっちゃってさ、俺、こんなだからどうしても任せちゃって。」
「うちはこれでうまくいってんだから、いいんじゃない?」
「ママがすんごい、ってこいつがこんなに喜んでくれると、俺もうれしくてさ。」

「なあ、俺にできることなんかあるかな?ママにさ。」
「もっと給料いっぱいもらってきて、私を専業主婦にして!」
「あ、ごめん、そいつは無理だ。」
ガハハ!と夫が高笑いした。

「ならさ、どうやったら私がパパみたいに毎日楽しそうに仕事していけるか、一緒に考えてくれるかな?」
「あ、それならできる!」
お任せください、と夫は胸をドン、と叩いた。

連日続く調査の準備作業を終えた、とある日の夕方、山田は事務室に戻った。

ふと思い出し、周囲を見回してから机のパソコンを開いて一時保存したままのファイルを開く。
「職場の上司から過重な仕事を強要されています。…」
自分の書いた文章を一読してからファイルを閉じ、削除した。

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