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「衛生獣医、木崎勇介」(食肉衛生検査所編) 平成28年(3)

2020/05/29
 
 
 
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たく かずと(ペンネーム) 某県で20数年公衆衛生獣医師として勤務し、退職。 家族とともに地元の自然と旬の味覚を存分に味わう日々を楽しんでいます。

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平成28年(3)

平成28年7月。

山田と石野が細菌検査室を出ていく。
その後ろ姿を見送りながら、若手の矢作が細菌検査室に入ってきた。

「山田さんと石野さんの指導ですか、早瀬さん。」
「そうだよ。めんどくさいけど、まあ、僕に押し付けられそうだった仕事をやってくれるわけだから、協力しないとね。」
「僕はもっとやりたいことがあるんだ。早くこんなやっつけ仕事の職場から出してほしいよ。」
「衛生研究所ですか?」
「そう。僕は研究者になりたいんだ。」
「某研究所にいたんですもんね。」

「ずっといたかったんだけどね。でも組織改編の時に出されちゃってさ。しょうがなくて県の研究機関に入れてもらおうと思って県職員になったんだ。」
「そしたらさ。いつまで経っても検査所から出してくれない。」
「僕の経歴知ってるくせに、人の使い方を知らなすぎるよ。全く能無しの上司だ。」
「そもそも医学部並みの偏差値の獣医学部を6年もかけて出て、国家資格まで取ったのに、なんだよこの安月給。県職員なんてやってらんないよな。」

「僕もそう思います。高校の先生から医学部はちょっと難しいね、って言われたから獣医学部にしたんだけど、動物病院の勤務医は残業と安月給でブラック企業みたいなもんだし、さっさと開業して一儲けしようと思っても、資金がどっさりかかるから簡単じゃない。」
「あげくの果てに、公務員の給料は医者には遠く及ばない。こんなんだったらもっと頑張って医学部入ればよかったですよ。」
「まあ、後悔したってもう遅いけどな。」

「公務員になってしまった以上、あとの楽しみはせいぜい、小金をもらって有給休暇を取るぐらいだな。」
「都心部の公務員獣医師職場に人気があるのは、まさにそれですよ。小金と時間を目一杯もらって、情報やモノに溢れる便利な都会暮らし。うちみたいなド田舎の公務員獣医師職場なんか、誰も来たがらないですよ。」
「ま、そのおかげで獣医師だって言うだけで、なんにもしなくてもすぐに採用されたけどな。」
「そうですよ。仕事なんて文句言われない程度にほどほどにやりましょ。」
「それに上が何か仕事を押し付けようとしたら、今度はパワハラだ、とか言ってやればいいんじゃないですか?」
「それはもう考えてある。今の上司はみんな、パワハラって訴えられて自分の昇進に響くとやだな、といつもビクビクしてるからな。こっちに分がある。」

「押し付けられると言えば、歓送迎会だよな。上司と一緒に飯なんて食おうとも思わないし、話すことなんか何もないよ。」
「親睦会とかはやりたい人だけでやればいいんですよね。」
「歓迎会や送別会なんて、僕にすればアルハラの極みだ。いっぺん所長に苦情言ってみようかな。」
「結構効き目あるかもしれませんよ。公務員職場って、パワハラとかセクハラにクソ敏感ですもんね。」
「だよな。そこがこちらの強みだ。」
「お互い、上手くやりましょね。」
「ああ。」
「あ、そろそろ帰んなきゃ。行きましょ。」
早瀬と矢作は細菌検査室の明かりを消し、事務室へ向かった。

平成28年8月。

真夏のと畜場はまるでサウナだ。
解体処理室自体は窓のない構造なので日が差し込むことがなく、解体用の機材がまだ稼働していない朝一番は、夏でも少しひんやりしているぐらいだ。
まして枝肉を検査するエリアは空調が入っているので、本来は寒いぐらいの場所だ。
なのに作業が始まるとたちまち汗が噴き出てくる。

豚の枝肉検査では、逆さ吊りで流れてくる枝肉の前肢を持ち上げたり、枝肉を回転させながら、枝肉の全ての部位をチェックする。
立ったままでは全ての部位を観察できないので、自然、と畜検査員は頻繁に屈んだり伸び上がったりすることになる。
こうした動きの大きい検査を、ヘルメットとマスク、胸までの防水エプロン、ゴム長靴姿で行うのだ。
その上で、1頭ごとにゴム手袋をはめた自らの手指、そして使用するたびにナイフを、ナイフ消毒槽の熱湯に漬け込み、消毒する。
熱湯に漬けている時間はほんの数秒なのに、手袋ごしに手がじりっと熱くなる。おまけに消毒槽から立ち上る湯気と熱気を毎回浴びることになる。
10分も検査すれば、もう汗だくだ。

豚の解体ラインの上流を担当する作業員が休憩に入った。

あと10頭で終わる。
いつものことながら、この数分が一番長く感じる。
最後の枝肉を検査し終え、手早くナイフやエプロンを片付けると、矢作はと畜場2階のと畜検査員控室へ戻った。
控室は空調が効いており、とても快適だ。
矢作が控室のドアを開けると、いつものメンバー、再任用職員の飯田と吉田がお茶を片手に話し込んでいた。

「よう、おつかれさん。」
「お疲れっす。」
飯田は矢作に声を掛けた後、すぐにまた吉田と話し込み始めた。
「ようやく満額もらえるよ、年金。」
「ああ、いいですね。私はあと二月かな。」
「なんか確定申告もしないといけないみたいでさ。」
「へー、そうなんですか。」
「いよいよになった時、施設入るのにも金かかるし、なんぼでも減らさないようにせんとな。」
「俺、外貨預金もやってるんだ。」
「どんな感じですか?」

(あーあ、またやってるし。)
(俺達世代は年金制度なんて、もうどうなってるかわかんねえのにさ…。)
聞こえないふりをして、矢作は控室の流しで顔をがしがしと洗い始める。

飯田が矢作に声を掛ける。
「矢作ちゃんも、若いうちから年金の勉強しといた方がいいよ。」
「俺、教えてあげよっか?」
「いやー、いいっすよ。」
矢作はタオルで顔を拭きながら冷蔵庫の麦茶を一気に飲み、作り笑いで応じる。
(俺らは毎日、あれやこれやと重たい仕事やらされてるのに、こいつらは一日中、と畜場の控室に入り浸り。やってることは現場検査とお茶飲み話ばっかり。前まで所長とかやってたくせに、再任用職員になったとたんに悠々自適なご隠居暮し決め込みやがって。)
(話の中身も年金や財テク、趣味の話ばっかだし、ホントうぜえよな。)

「じゃ、お先です。」
矢作は手早くタオルを片付け、控室から出た。

ドアを出てすぐ、もう一人の再任用職員、大木とすれ違う。
「ごくろうさま。」
「お疲れさまっす。」
(この人、あの二人とはちょっと違うみたいだけどな。よくわかんないけど。)
ま、どうでもいいや、と、矢作は階段を駆け下り、と畜場を出た。

その日の午後。

矢作は牛の枝肉検査を担当していた。
牛も豚と同様、1頭ごと逆さ吊りにして解体が進んでいく。このため、牛の解体ラインには必要に応じ昇降台が設置されており、ほぼ2階ぐらいの高さまで上がれる。作業員やと畜検査員はこれに乗って作業を進める。

「先生、これズルみたいだ。」
解体ラインの上流で前肢の皮を剥いていた作業員が、矢作に向かって大声で呼びかけた。
「あ、はい。」
ズルってなんだっけ。
あ、そうか、筋間水腫のことだ。
言われた牛の枝肉が矢作の立つ枝肉検査台の前に到達した。
けれど、何をしてどう判断したらいいのか、分からない。

作業員は心配そうな顔をしてこちらを見ている。
分かんねえのか?と思われてはしゃくだ。
早瀬さんに聞いてみよう。
「とりあえず退避レーンに流してください。」
一時的に枝肉をメインラインから外させ、その時間帯の解体作業が一段落するのを待ってから、牛の内臓検査を担当していた早瀬に近づき、耳元で囁く。
「これ、ズルらしいんですけど。」
早瀬も小声で、
「あー、僕もよく分かんない。適当に検査して通しちゃえば?」
「え、大丈夫っすかね。」
「だって、見かけたいしたことなさそうじゃん。牛だぜ。うっかりナイフ入れると、商品価値が下がる、っていつも怒られるじゃない。」
「でももし全身がズルだったら、高度の水腫で全部廃棄ですよ。」
「めんどくさいことにならないよう、誰かに聞きましょうよ。」
少し離れたところで片付け物をしながら、解体作業員が心配そうな顔で二人を見ている。
なんとかしなきゃ。
「誰に聞く?」
「分かんないから内線で次長に聞いてみましょ。いつもなんかあったら連絡しろ、って言ってる人だから。」
「そうだな。そしてこちらは退散、といこう。」

矢作は解体室の内線電話を取り、検査所事務室にいる勇介を呼び出した。
「すみません。ズルみたいなんです。誰か一緒に診てもらえませんか?」
勇介は少しの間思案し、現場ローテーション表を見つめる。
「大木さんが空いている。行ってもらうよう連絡する。」
「ありがとうございます。」

勇介は事務室を出て、大木の姿を探す。
大木はディスカッションルームにいた。
ここには様々な専門書が置かれており、調べものをするスペースとして使われる。
大木は一人静かに解剖学の専門書を見つめていた。

「大木さん、すみません。牛のズルが出たみたいなんで、ちょっと診てやってくれませんか?」
大木は専門書から顔を上げ、応じる。
「今、誰が立ってるんですか。」
「矢作です。あと早瀬もいるみたいです。」
「あの二人か。あまり気が進まんなあ。」
「あいつら、現場検査まともに覚えようとせんからな。」
「それに検査室の検査よく知らないからって、こっちを小馬鹿にした態度も何回かあってさ。あいつらこっちの話なんか聞く気あるのかね?」
「そういう態度、時々あったかもしれません。私の指導不足です。すみません。」
「いや、次長が謝るこっちゃねえんだよ。あいつらが悪いんだ。」
「あんな奴ら、いっぺん大恥かくといいんだよ。」
「しかしそれでは、検査所として大きなミスを犯してしてしまうことになるし、共に働く作業員にも体面が立ちません。」
「大木さんは里崎の経験が豊富で、牛に詳しいです。里崎でご一緒したとき、ズルの診断を私に教えてくれましたよね。あれをお願いしたいのです。」

「今の郷浜のメンバーでは、大木さんが一番適任です。」
「矢作たちの態度は問題ですが、彼らが次の時代の検査員である以上、技術を引き継ぐのは我々世代の責任ではないですか?」
「ここは至らない若手のために、一肌脱いでもらいたいのです。」

「次長も大変だな。次の時代か。」
大木はゆっくりと腰を上げる。
「変な牛を合格して外部から文句言われても困る。」
「俺はあいつらが嫌いだ。でもお前さんの言うこともわかる。」

「しょうがねえな。いっちょう引き受けるか。」
「ありがとうございます。」
「けどな、あいつらが聞く耳持つかどうかは知らんぞ。俺は目の前の牛を診断し、処置するだけだ。」
「それで結構です。」

大木が解体処理室に着くと、矢作が近づいてきた。
「すみません。よろしくお願いします。」
「ああ。」

大木は枝肉の全体をぐるっと見回した後、前肢の断端、首の断端をじっと見つめている。
次に枝肉の背中側に回り、首の筋肉と背骨との間に慎重にナイフを入れると、その断面をじっと見つめた。
おもむろに昇降台に乗り、今度は両方の後肢の外側、内側にナイフを入れている。どうやら筋肉と筋肉の間を診ているようだ。
「シゲさん、肋間開けてくんねえか?」
「あいよ。」
シゲさんと呼ばれた初老の作業員が、鮮やかな手つきで牛の肋骨の間にナイフを入れ、一発で大きく切り開いた。
「あーあ。」
シゲさんが呟く。
「どうだ?」
昇降台の上から大木が声をかける。
「まあ、見てくれよ。」
大木が昇降台を降り、肋間の断面を診た。
「よし、高度の水腫で全部廃棄してくれ。」
「あいよ。先生、ありがとよ。」

シゲさんは早速、廃棄の準備に取りかかった。
ぼんやりと立ち尽くしている矢作と早瀬に、
「すんません、ちょっといいですか?」
と声を掛けた。
シゲさんの手には大分割用の大型チェンソーがあった。
矢作と早瀬は慌ててよけた。

「じゃ。」
大木は矢作と早瀬に一瞥し、解体室から去っていった。

後姿を見送る二人に、シゲさんが言う。
「先生方も、ここ見てみなよ。」
シゲさんから言われ、肋間の断面を見た。
筋肉と筋肉の間にゼリー状の物質が走っており、ビチャビチャの水浸しだ。
「え!」
矢作は大木が切開した断面をひとつづつ見ていく。
程度の差こそあれ、どの部位の筋肉の間も同じような状態だ。
外観ではまるで分らなかった。
「俺が感心するのはナイフの入れ方だよ。」
「あんな風に入れてくれたら、万一ズルでなかったとしても、商売物に傷付けやがって、なんて業者に怒られないで済むのさ。」
「どこにどうナイフを入れたらいいか、分かってんだよ。」
矢作と早瀬は立ち尽くし、大木の切開部位を見つめている。

「ところでシゲさんは、どうしてズルだと思ったんですか?」
矢作が恐る恐る尋ねた。
シゲさんはにっこり笑い、
「そりゃずっと牛見てるからね。ズルもさんざん見てきた。首や肢先を落とした時、いつもと全然違うから、ありゃ、ひょっとして、と、すぐ分かっちまうのさ。」
「先生方も大木さんぐらいやっていれば、分かるようになるさ。」

とても分かるようになれるとは思えない。
それにしても大木さんは、すごい。もっと聞きたい。
矢作は自分のナイフをケースに収めながら、そう思った。
二人で牛の解体室から控室へ移動する途中、早瀬が囁く。
「大木さん、黙ってちゃっちゃとやっちゃって、ひとつも教えてくんなかったよな。あれじゃわかんないよ。」
「覚えて欲しいんだったら、ここをこう切開して、とか書いた診断マニュアルでも作ってくれればいいのに。」
「そういうこっちゃないです!」
「おいおい、どうしたんだよ。」
「あれ見てなんにも思わないんですか?」
「俺はすごい、と思いました。」
「肢の切開なんて、大きな筋肉に傷一つ付けずに大きく筋間を露出させている。筋肉の走行や靭帯の付着部位が頭に入っているからできるんですよ。」
「教えてもらいたいです。こんなのどんなにいいマニュアル作ってもらったってできません。実地で教えてもらわないと。」
「なに熱くなっちゃってんの?らしくないな。」
「まあ、いいです。」
矢作は控室で手早く手洗いと洗顔を済ませ、一人足早に検査所へ戻っていった。
「なんだあれ?」
控室に一人取り残された早瀬は、ポカンとした顔で、そう呟いた。

矢作は検査所内で大木の姿を探す。
大木はディスカッションルームにいた。
本棚に向かい、専門書の背表紙を眺めている。

ドアを開けて入ってきた矢作に、大木が眼を向ける。
思わず下を向きそうになる自分をじっとこらえ、大木の眼から視線を外さず、矢作が言う。
「さっきはありがとうございました。」
「いや。」
「あの、大木さん、僕もズルの診断法を覚えたいんですが、教えてもらえませんか?」

大木は矢作から視線を外し、専門書の背表紙に視線を移す。
「あれは里崎で覚えた。牛が少ない郷浜ではめったにズルが出ないから、教えようがない。」
「ズルを想定したナイフの入れ方を覚えたいんです。別の案件で全部廃棄になった牛が出た時、一緒に来てもらって切開部位やアプローチを教えていただけませんか?」
「なんか珍しくやる気あるんだな。」
矢作は思わず声を詰まらせる。
「現場検査なんか大したことねえや、クレーム出ない程度に適当にやってりゃいい、なんて思ってたんじゃないのか?」
ぐうの根も出ない。
「そんな奴に教える気なんか起きねえよ。」

「あのな、目の前の仕事に真剣に向き合え。こちとらプライド持って現場張ってるんだ。ぬるい仕事されてると、一緒にいるだけで不愉快だ。」
「…。」

「じゃ、そういうことで。」
大木は一冊の専門書を取り出し、開き始めた。
矢作がこらえきれずに言う。
「これから始める、じゃ、だめなんですか?」
「これから始めます。だから教えてください。」
大木が手を止める。
矢作に視線を戻し、しばらく矢作の眼を見つめた。
やがて低い声でゆっくり語りかける。
「なら、まず豚の現場でそのやる気とやらを見せてもらうか。」
「はい!ありがとうございます。」
矢作は深々と頭を下げた。

翌日、矢作と大木は豚の内蔵検査台に立った。

「上流に立て。」
「わかりました。」

大木から凝視されていると思うだけで緊張する。
いつものように身体が動いてくれない。
しっかりしろ、と自分に言い聞かせながら、流れてくる豚の内蔵と格闘する。
大木はこちらを見ているのか、見ていないのか、全くいつも通りだ。
あっという間に交代の時間が来てしまった。

次の担当と交代し、控室に戻る。
戻るまでの間も、大木は黙ったままだ。

その日の午後、再び大木と矢作は豚の内蔵検査台に立った。

「今度は下流に立て。」
矢作は下流に立って内蔵検査をしながら、目の端で大木の動きをつぶさに観察する。

と、あることに気づいた。
毎回、全く同じ動きだ。
しかも最小限の動きで処置を終え、次の内蔵に目を移すタイミングが速い。
あげくのはてに平行して流れる頭や枝肉、作業員の動きにも目配りしている。
恐ろしく視野が広い。
眼前の内蔵だけしか見ていない自分とは全く情報量が違う。
それに何通りかの内蔵の整復方法を使い分けているらしく、どんな形でトレイに置かれていても、同じ配置になるよう、あっという間に内蔵を整復してしまう。
だから楽に処置ができるのだ。
それにしても、ナイフが切れる。
だから処置する際に、ナイフに全く力が入っていない。

やらなきゃいけないことが多すぎる…。

矢作と大木は控室に戻った。
並んで手洗い、洗顔をし終えた後、ようやく大木が口を開いた。
「少しは気付いたようだな。」
「いきなり全部やろうとするな。一個ずつ、一個ずつだ。」
「はい。」
大木は控室から出て行った。

背後のテーブルでは、またしても飯田と吉田が雑談している。

なぜだろう。あんなに不快だった飯田と吉田の雑談が耳に入らない。

まず、一個。

矢作は自分のナイフを取り出し、自動研磨機のスイッチを入れた。

大木が検査所に戻ると、廊下で勇介とすれ違った。
「お疲れ様です。」
「お疲れ。」
「矢作はいかがですか?」
「悪くない。勘所のつかみが早い。」
「手を切らずにラインスピードについていけるようになると、もう全部できてるような気になっちまうだろ。大抵の奴がそこで満足しちまう。」
「この前までの矢作もそうだ。」
「ただスタートラインに立てただけのことで、そっからが本番なのにな。」

「まず診る時間を確保するための手口をありったけ手に入れておく。そして自分の立ち位置から見えるあらゆる事象から情報をかき集める。あとは暇を見つけてはカラー図説に目を通し、様々な肉眼病変のイメージを頭に焼き付けておく。」
「現場検査のキモだ。」
「診断には当然、解剖学と病理学の知識が求められる。」
「もともと学問はできるんだ。手口を自分のものにして、成書で得た知識と眼の前の光景がつながり始めたら、化けるな。」

「大木さんにお願いしてよかったです。ありがとうございます。」
「いやいや、俺も楽しいよ。」
じゃあな、と言って大木は事務室へと去っていった。

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